気象情報で使われる「豪雨」という語には、華やかさの気配がまったくありません。ここでの豪は、量と勢いの大きさだけを言っています。豪雪、強豪、豪速球も同様で、この字の芯にあるのは装飾ではなく力です。もともとは勢力を持った人物や有力な一族を指す語に用いられてきました。豪族、土豪、豪傑。人の器量や権勢を測る字だったものが、いつのまにか雨量や球速を測る字にもなっている。ひとつの漢字の意味の広がり方を追うと、その語が背負ってきた社会の関心が透けて見えます。人を測っていた尺度が、人以外を測りはじめるとき、そこで何が起きているのか。
もう一方の華は、花の意から光彩や華やかさへ広がった字です。力の字と、はなやかさの字。この二つを並べた語は、漢籍では権勢と富貴を兼ね備えた人やその暮らしぶりを言うのに使われた例が知られています。出発点にあったのは、つまり人物評でした。誰が力を持っているか、その力がどれだけ目に見える形をとっているか。富そのものではなく、富の可視性を言う語だった、と考えるとしっくりきます。力が外から見えなければ、この語は当たらない。逆に言えば、見せるための富というものが存在しなければ、この語は生まれる必要がなかった。
近代の日本語では、この語が付く先が人からモノへ移っていきます。豪華客船、豪華な料理、豪華な調度。修飾されるのは器物になり、持ち主の権勢は背景へ退く。出版の世界では豪華版という言い方が定着し、装丁や紙質という物理的な属性を指すようになりました。人の格を言っていた語が、紙の厚さと箔押しの有無を言う語になったわけです。移行の理由を一つに絞ることはできませんが、家柄ではなく買える物で人を測る社会に変わっていったことと、無関係ではないでしょう。血筋は買えないが、装丁は買える——語が指す対象が売買可能な物へ移ることは、その語がやがて値札の隣に置かれることを準備します。
意味の変化を分類する枠組みでは、範囲の拡大と縮小、評価の良化と悪化がよく使われます。この語がたどったのはそのどれとも少し違う経路で、当てはまる対象を広げながら、一件あたりの意味の強度を下げていきました。二つは同時に起きやすい関係にあります。範囲が広がるとは、その語を使ってよい条件が緩むということで、条件が緩めば、実際に使われた一例が伝える情報は減る。強調のための語がこの経路をたどるのは珍しくなく、恐ろしいという意味だった「すごい」が今の位置に落ち着いたのも同じ動きです。強い語ほど繰り返し使われ、繰り返されるほど磨り減り、磨り減ると次の強い語が求められます。この循環から抜けた強調語を探すほうが難しい。
面白いのは、同じ字を持つ他の語が必ずしも磨り減っていない点です。豪雨も豪雪も、気象の用語として強度を保ったままでいる。摩耗しているのは字ではなく、この語が置かれた場所のほうです。広告と商品名の中に何十年も置かれ続けた語だけが薄くなった。だから小説の地の文にこれを置いても、読者が受け取れるものは多くありません。伝わるのは、語り手がそれを豪華だと判断した、という一件だけです。対処は単純で、評価を一段下ろして数と細部を出すことに尽きます。八人掛けの卓に皿が十四枚。シャンデリアの電球が一つも切れていない。給仕が、二度目の客の名を覚えている。磨り減った語の代わりに置くべきなのは、より強い語ではなく、数えられる物です。