障子の破れ目に目を寄せる動作と、雲の切れ間から日が差してくる現象。同じ動詞で言えます。前者では人が外から内を見ていて、後者では対象が内から外へ出てきている。視線の向きがまるきり逆なのに、語のほうは何食わぬ顔で両方を引き受けている。多義として片づけてしまえば早いのですが、その前に、二つの用法が何を共有しているのかを見ておきたい。
条件になっているのは開口部の狭さです。壁が全面なくなっていれば、わざわざこの語を使う必要はなく、ただ見ると言えば足りる。認知言語学が容器のイメージスキーマと呼ぶ枠組み——内側があり、外側があり、その間に境界がある——を前提にして、その境界に小さな穴が空いている状態。この穴を、視線が通っていくか、対象の一部が出てくるか。方向は逆でも、通っているのが全体ではなく部分だという点は共通しています。顔を出させるときに出ているのは顔だけで、体は内側に残る。表情に不安が現れるときも、出てくるのは不安の一部だけです。
隙間越しの視覚に、日本語は専用の語をいくつも持っています。垣間見るは、垣と垣のあいだから見ることを語形の中に抱えたままで、古典の物語には、垣根や簾越しに人の姿を目にする場面が繰り返し現れます。物越しに見るという条件が、語の内側へ畳み込まれている。認知言語学では、知ることを見ることとして語る型がよく取り上げられます。理解する、見通す、明らかになる、視野が狭い。どれも視覚の語彙です。その体系の中で、正面から全体を見ることが正規の知に当たるとすれば、隙間を通す語は、許されていない知や不完全な知のほうを担当することになる。全体を見ていないという事実が、そのまま知識の欠落として写される。だからこの種の語で得られた情報は、作中でしばしばあとから訂正されます。誤解が生まれる場面をこの語で書き起こすのは、理にかなった段取りだと言えます。
ここで引っかかることがあります。視覚をめぐる言い回しの多くは、視線を物のように扱う。視線を投げる、視線が刺さる、視線を外す。目から何かが出て相手に届くという古い理解の名残だとも言われますが、この動詞はその系列に完全には収まりません。視線が伸びていく形ではなく、身体そのものが穴へ近づく形を残しているからです。覗き込む、という複合が示しているのは、視線の移動ではなく上体の移動でした。身体が動いた痕跡が語の内側に残っている——だからこの動作にだけ、他の見る動作にはない後ろめたさが付いてまわる。姿勢を変えたという証拠が、見た側の身体に残るからです。
格助詞を見ると、二つの用法はきれいに分岐しています。対象を取る形と、起点や経路を取る形。前者では人が主語に立ち、後者では現れてくるもののほうが主語に立つ。同じ動詞の同じ語形が、格の組み替えだけで観測者と被観測者を入れ替えてしまう。見る側は隠れていて見られる側は無防備だ、という空間の非対称が、そのまま統語の非対称へ写っている。空間から抽象への写像を語るとき、たいていは意味の話になりますが、ここでは格の枠組みまで一緒に運ばれている。
三つ目の型もあります。使役にした形です。片鱗を覗かせる、本音を覗かせる——ここでは内側にいる者が、自分の意思で一部だけを外へ出している。見る側の動作でもなく、自然に露出するのでもない、制御された開示です。同じ穴をめぐって、視線が入る、対象が出る、内側の者が出して見せる、という三つの向きが揃った。違っているのは制御の所在だけです。書く側にとって、この三つは人物の力関係をそのまま表します。許可なく穴へ近づく人物と、見せる量を自分で決めている人物。どちらの形を選ぶかで、その場面の主導権がどちらにあるかまで決まってしまう。しかも使役の形では、出す量を決めているのが内側の人物だという情報が、読者にだけ渡ります。見ている側の人物は、自分が見せられていることに気づいていない。同じ穴を挟んで、知っている量まで非対称になるわけです。
抽象的な用法に移っても、この構造は崩れません。本音が現れる、疲れが表に出る、育ちが知れる。どの場合も、隠されているものが全部は出てこない場面で使われます。全部出てしまえば別の動詞を選ぶことになる。だから小説の中でこの語を置くとき、決めているのは視線の話ではありません。境界をどこに引き、人物をそのどちら側に立たせるか。そして、越えてくるのは全体のうちどれだけの部分か。穴の大きさを決めているのは、いつも書き手のほうです。