あらまあ

【あらまあ】感動詞

使い分けの視点

あらまあは、検出の「あら」と受け止めの「まあ」が二段に重なる語です。気づいてから急いで評価を下さず、いったん引き取って眺める構えを運ぶので、年輪や余裕のある人物の口に馴染みます。読点を挟んで「あら、まあ」と書けば二段の処理が可視化され、続けて書けば一息の慣用句になります。表記で間合いを設計できる語です。

同義語

同品詞の類義語

おやまあ
なんと文芸的
へえcolloquial

類義句

同品詞の慣用的言い換え

なんてこと
これはこれは文芸的

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

おっとcolloquial
やや文芸的
なんとまあ

関連語を探す

語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

あれまあエッセイ関連

例文: あれまあ、洗濯物が。彼女は空を見上げて駆け出し、最初の雨粒がもう落ちていた。

あら、まあエッセイ関連

例文: 「あら、まあ」と彼女は二段に分けて驚いてから、ゆっくり椅子を引いた。

検出と評価、二拍の意味論——透けて見える感動詞の内部構造

感動詞は意味の分析を拒む、と概説書にはしばしば書かれます。「痛っ」を意味成分に分解しても得るものは少なく、辞書も「驚いたときに発する語」といった記述で切り上げるのが通例です。ところが、内部構造が透けて見える例外があります。「あらまあ」はその代表格で、「あら」と「まあ」という、それぞれ単独でも使える二つの感動詞の連結であることが、誰の目にも明らかです。分析を拒むはずの語類に、合成的な意味を持つ成員が混じっている。

分解してみます。前半の「あら」が担うのは検出です。何かが予想から外れたことへの気づきそのもので、それが何であるかの判定はまだ含みません。後半の「まあ」が担うのは受け止めと詠嘆——すぐに評価を下さず、いったん引き取って眺める構えです。注目すべきは、連結の順序が固定であること。「まああら」とは決して言いません。気づいてから受け止めるという認知の順序を、語順がそのままなぞっているからだと考えると腑に落ちます。意味が部分から合成できるだけでなく、並び順まで動機づけられている感動詞は、そう多くありません。英語の oh my のように驚きの間投詞が連結で膨らむ現象は他の言語にもありますが、検出と受け止めという分業がこれほど素直に読み取れるのは、珍しい部類でしょう。

このテンプレートは生産的でもあります。「おやまあ」「なんとまあ」——後半に同じ「まあ」を据えたまま、前半の検出部だけが交換されている。「おや」は予期との照合の失敗、「なんと」は程度への驚きで、検出の種類ごとに違う語が前半のスロットに入り、受け止めの「まあ」がそれを共通に引き取る。くだけた「あれまあ」まで含めれば、前半スロットの顔ぶれはさらに広がる。感動詞の世界に、検出詞と評価詞の二スロットから成る小さな文法があると言いたくなる眺めです。合成性は例外ではなく、この一角ではむしろ体系をなしています。

では、意味の核はどこまでか。この語が符号化しているのは「予想からの逸脱が起きた」ことと「話し手がそれを受け止める構えに入った」ことまでで、その逸脱が良いものか悪いものかは決めていません。孫の合格の報せにも、割れた皿にも、隣人の派手な衣替えにも使える。プロトタイプ意味論の言い方をすれば、中心にあるのは快・不快の極性ではなく、逸脱の顕著さと評価の保留です。極性は文脈が埋める。だからこそ守備範囲が広く、だからこそ単独では感情の色が薄いのです。

強度の階層も観察できます。単独の「あら」より連結形のほうが、事態の顕著さが一段大きく響く。二語を連ねると強意になるのは、驚きが占める時間の長さを発話の長さが写し取るためで、言語学で図像性と呼ばれる現象の一種と見ることができます。「とてもとても」が「とても」より強いのと同じ理屈が、感動詞の連結にも働いている。長く言うことは、それだけ長く立ち止まることの写像です。

表記にも設計の余地があります。読点を挟んで「あら、まあ」と書けば、検出と受け止めの二段がそのまま可視化されて、驚きの処理がゆっくり進む人物になる。続けて書けば一息の慣用句として流れ、「あらまァ」と小書きの仮名を使えば、声色の芝居がかりまで写せます。脚本がト書きではなく台詞の表記そのもので間を指定するのと同じ手筋で、意味構造が二段だと知っていれば、句読点と仮名遣いをテンポの楽譜として使えるわけです。

統語的には、この語は孤島です。文の中に埋め込むことができず、「あらまあな出来事」とは言えない。単独で一語文として完結し、話し手の心的状態の表明としては文一つぶんの仕事をするのに、文法上は文のどこにも属せない。だから小説の地の文に取り込むには「と声を上げた」のような引用の枠が要ります。書き手にとっては、評価を保留できる人物——年輪か、余裕か、諦観を備えた人物——の口に馴染む語で、若い人物なら「えっ」と即座に評価へ飛ぶところでしょう。世代の連想は類型に落ちやすいぶん、あえて若い人物に使わせて軸をずらす手も残されています。声にしか住めない語彙があるということ自体、台詞が地の文にはできない仕事を持つことの、ささやかな証明です。

文: hakadoru.ai 編集部

エディタで直接置換して執筆を加速

SaaS エディタではシソーラスの結果をワンクリックで本文に反映できます

無料で始める →