語の性格を調べる素朴な方法に、その語の前後に何が現れるかを片端から数える、というものがあります。用例を集めて、直前の名詞、直後の助詞、少し離れた位置の動詞まで拾って表にする。意味を定義しないまま、隣人の顔ぶれだけで語を特徴づける手つきで、計量的な語彙研究の基本にあたります。二語の連なりを数え、三語の連なりを数え、どの組み合わせが偶然の期待値より多く現れるかを見る。作業自体は退屈で機械的ですが、直観が届かない場所まで届くところに価値がある。この作業をこの動詞でやると、表が早い段階で散らかりはじめます。
主語の位置に来るものを並べてみると、木、電柱、看板、人、馬、政権、王朝、老舗、それに病に倒れるという言い方では原因のほうが助詞を伴って入り込む。物理的な直立物から、抽象的な制度、健康状態まで、同じ一語が受け止めている。分布のばらつきが大きい語は、それ自体が担う情報が少ない——語の意味はその語が現れる文脈の分布そのものだ、という考え方が計量的な意味研究の土台にあります。この立場に従うなら、分布の広い語は意味が薄いのではなく、意味を隣から借り続けている語だということになる。実際、この動詞だけを取り出して「どういう意味か」と問われると答えにくいのに、主語を一つ添えた途端に像が確定します。
ここで自分の書いたことを疑っておきたい。頻度の高い語ほど語義の数が多くなる傾向は古くから指摘されていますが、この動詞が実際に高頻度帯にいるかどうかを私は数えていません。感覚的には中程度で、日常会話より書き言葉と報道に多く現れる気がする。だから「頻度が高いから多義になった」という説明はここでは使えない。順序が逆である可能性も残ります。抽象的だから広く使え、広く使えるから頻度が上がった、という向きの説明も同じくらい成り立つ。使えるのは、実際に目で確かめられることだけ——主語の種類が異物混入的に広い、という一点です。
広さの内訳を見ると、もう一つ気づくことがあります。この動詞は、倒れる過程の形をまったく指定しない。まっすぐ横に傾いたのか、膝から折れたのか、支えを失って回ったのか。速度も、高さも、音も書かない。書かれるのは、直立という状態が終わったという事実だけです。共起の広さは、この抽象性の裏返しでしかない。形を指定しないからこそ、木にも政権にも使い回せる。逆に言えば、形を書く語——崩れる、伏す、突っ伏す——は、そのぶん主語の範囲が狭くなっているはずで、実際に並べてみると狭い。抽象性と適用範囲は、きれいに反比例している。この反比例は、語彙の設計としてはよくできています。広く使える語と、狭く精密な語が、同じ出来事について別の解像度を用意しているわけです。
実作に引き寄せると、これは扱いにくい性質です。「倒れた」とだけ書かれた文を読むと、読者は空白になった形の部分を各自の在庫から補います。補われた像が書き手の思い描いたものと一致する確率は高くない。倒れる場面は、たいてい物語の分岐点に置かれるので、ここでずれると後続の場面まで読みが揺れる。ずらしたくないなら、この動詞の直前か直後に、形を指定する一語を置くしかない。膝、肩、音、間。どれか一つで足ります。二つ置くと、今度は動詞のほうが余りはじめる。