落胆の場面では文が短くなる。多くの書き手が経験的に知っていることですが、これは数えられる現象です。ある場面の各文の字数を拾って並べると、山場の手前では長い文が続き、感情が落ちる一点で急に短い文が現れる、という形がよく観察されます。平均文長という一つの数字ではこの動きは見えません。効いているのは分布の形——長い文の連なりの中に、どれだけ極端に短い文が差し込まれているか、です。
「彼は肩を落とした。」という文は、句点まで含めて九文字しかありません。しかも構成要素は代名詞、助詞、身体部位、動詞だけで、漢語がひとつも入っていない。文章の硬さの目安として、漢語の割合を数えるという古典的な方法がありますが、この句はその物差しの上で最も柔らかい側に張り付きます。「意気消沈した」と書けば漢語率は一気に上がり、文は報告書の顔になる。同じ出来事を指していても、字面の組成が違えば、文が発する温度が違う。数えれば、その違いは割合として取り出せます。
拍で数えても特徴があります。この句は六拍で、日本語のリズムの基本単位とされる四拍を少しはみ出す長さです。俳句や標語が示すとおり、日本語の定型は四拍と三拍の組み合わせに強く引き寄せられますが、六拍の動詞句は文末に置かれたとき、五七調にも八拍の均等な枠にも収まりきらず、わずかに余る。この余りが、句点の前で一瞬の失速感を作ると感じる書き手もいるようです。断定はできません。ただ、文末の動詞句の拍数を意識して読み比べると、着地の感触が句ごとに違うことは確かめられます。
ここで注意したいのは、表記の長さと音の長さが一致しないことです。「肩を落とした」は表記で六字ですが、口に出すと、か・た・を・お・と・し・た の七拍になる。「意気消沈した」も表記は同じ六字で、い・き・しょ・う・ち・ん・し・た の八拍。版面の上で同じ長さの二つが、音では一拍ぶんずれています。逆に「うなだれた」は五字で五拍、字数と拍数がぴったり重なる。仮名だけで書かれた語は表記と音が一致し、漢字を含む語は表記のほうが縮むわけです。黙読の速度が字面に引かれ、音読の速度が拍に引かれるとすれば、同じ一文でも読み方によって体感の長さが変わることになります。文の長短を数えるときは、字で数えるのか拍で数えるのかを先に決めておかないと、比較そのものが成立しません。
落胆の身振りを担う句は、そもそも数えるほどしかありません。うつむく、目を伏せる、うなだれる、この句。並べてみると、意味の差より先に尺の差が目につきます。四拍から六拍のあいだに全部が収まっていて、選べる幅は驚くほど狭い。そのうえこの句だけが、助詞「を」を挟んだ他動詞の形をしています。一語で済ませられるところを、三つの要素に分けて組み立てている。形の上では意志的な動作に見えるのに、実際には力が抜けた結果として起きる——この捻れが、繰り返し選ばれてきた理由の一つかもしれません。ただし他動詞の形は、主語を省いた地の文では宙に浮きやすい。一人称の語りで自分の肩について書くと、見えないはずのものを見ている感触が残ります。字数の設計に入る前に、視点の側で使える場所かどうかを確かめておくほうが早い。数える対象をもう一つ足すなら、読点です。九文字の文には読点が入る余地がありません。息継ぎを一度も挟まずに読み下せる文は、字数が同じでも体感がさらに短くなる。逆に十五字の文でも読点が二つ打たれていれば、読者は三度立ち止まることになります。字数と読点数を並べて記録しておくと、文長の分布だけでは見えない起伏が浮かんできます。
実践的に効くのは、文長の対比を比率で設計することです。六十字の文の直後に置かれた十字の文は、二十字の文の直後に置かれた同じ十字の文より、はるかに強く働く。読者が感じる緩急は絶対的な字数ではなく、直前との比で決まるからです。落胆の一文を短くしたいなら、その手前を意識的に長くする。人物が期待に胸を膨らませて改札を抜け、掲示板の前の人垣をかき分け、番号を上から順に目で追っていく——そこまでを一続きの長い文で書いておいて、それから十字で落とす。段差は、高い側を盛ることでも作れます。
数えることは書くことの代わりにはなりません。それでも、推敲の道具としての計数は安上がりで確実です。落胆の場面を書き終えたら、各文の字数を拾ってメモ帳に並べてみる。グラフにするまでもなく、数字の列を眺めるだけで、緩急が設計されているか、それとも全文が同じ長さでだらだらと続いているかは一目で分かります。感情の演出は形容詞を足すことだと思われがちですが、字数の配分という無色の変数が、実はかなりの部分を担っている。それを確かめる最短の方法が、数えることです。