期待値の等しい二つのくじを並べます。片方は必ず百円もらえる。もう片方は半々で二百円か零円。数字の上での見込みは同じなのに、多くの人は前者を選びます。この選好を扱うために、経済学は効用を上に凸な関数として置く。同じ期待値でも、ばらつきの大きいほうが評価を下げるという形です。この形が不吉さの手触りに重なる気がして、しばらく考えていました。
正体の知れないものが恐ろしいのは、結果の幅が広いからだ。この説明はよくできていて、暗がりや霧の描写がなぜ効くのかも一緒に説明してくれます。輪郭が見えないほど、起こりうる範囲が広がる。ばらつきが大きいほど評価が下がるのなら、見えなさがそのまま恐ろしさになるのは筋が通ります。
けれども、ここで引っかかりました。ばらつきが大きいだけなら、良い方向にも同じだけ振れるはずです。宝くじの当選も分散は大きい。ところがこの形容詞が付くものは、良い方向へ決して振れません。とすれば分散ではなく、分布の形そのものを指していることになる。片側にだけ長く伸びた裾——歪みのある分布の、悪いほうの裾を見せる語だと考えたほうが当たっている気がします。中心がどこにあるかは問題ではない。裾がどちらへ伸びているかだけが問題になる。
もうひとつ、この語は予兆を扱います。事象そのものではなく、事象の確率を押し上げる観測のほうを指す。この観測を得たあとで、悪い結末の見込みが上がる——という更新の構造です。似た語との差もここに出ます。凶兆を言う語は、対象と結末を別々に立てて、対象を指標として扱う。ところがこの語は、対象自身がその更新を発しているように書く。指標と原因の区別を、意図的に曖昧なままにしている。
ここで、評価の仕方そのものを疑ってみます。期待値で測るという前提は、同じ賭けを何度も繰り返せる場合にだけ自然です。一度きりの出来事に対して、平均はあまり意味を持たない。起こりうる範囲のうち最悪の側だけを見て判断する構えのほうが、恐怖の実感には近いはずです。不吉さを感じている人は、たしかに平均を計算していません。裾のいちばん端だけを見ている。期待値の言葉を持ち出したのは説明の便宜であって、当人の内側で動いている手続きはもっと粗く、もっと速い。
徴候が重なる場面も、単純な足し算にはなりません。不吉な兆しがひとつから二つに増えると、感じられる不安は二倍では済まない。確率の側からは、独立でない事象を独立として掛け合わせている、と説明することもできます。二つの兆しに共通の原因があるなら、掛け算の答えは本来の値から外れる。書き手にとって重要なのは、その外れ方が読み手にとって快いという事実です。兆しは二つで足りる。三つ目からは、外れ方のほうが計算違いとして見えてきます。
反証も出しておきます。何が起きるか完全にわかっていても、なお恐ろしいものはある。腐りかけた臭いに不吉さを感じるとき、結末の見通しは十分に立っています。とすれば確率の言葉だけでは足りない。おそらくここには、判断の速さという別の要因が混じっている。裾の形を計算する前に、身体のほうが先に評価を済ませてしまう場面がある。語形の畳みかけ——同じ音を繰り返して程度を上げる作りも、この即断のほうに合わせて作られているように見えます。
描写に落とすなら、指針は一つです。何が起きるかを書かず、起きうる幅の片側だけを見せる。輪郭を欠いた対象を置いて、良い方向の可能性を静かに閉じておく。中心を書き込んだ瞬間に、この語が担っていた形は崩れます。