英語の小説を日本語に移す作業のなかで、この動作はほとんど問題を起こしません。lower one's eyes、cast down one's eyes、drop one's gaze。どれも目を下方へ動かすことを言っていて、日本語側にぴたりと嵌る形があります。目的語に「目」を取る点まで一致している。語と語が一対一で向かい合っている、珍しく幸福な区画に見えます。
ところが、隣の語を並べると輪郭が崩れます。avert one's eyes は、下だけでなく横へも逸らす。日本語の「伏せる」は下方向に限定されていて、横は含みません。逸らすのほうが avert に近く、伏せるはその下位区分にあたる。つまり英語側は方向を指定しない動詞を中心に持ち、日本語側は方向を指定する動詞を中心に持っている。分節の刻み目が一つずれている。訳語が見つかることと、意味の場が同じ形をしていることは別のことです——一語の対応は、その周囲の地図まで保証してはくれません。
もう一つ、日本語側にだけ張り出している系列があります。「伏せる」は本を伏せ、カードを伏せ、名を伏せる。表を下に向けて隠す、という用法群を同じ語形が抱えている。lower にこの系列はありません。だから日本語の「目を伏せる」には、英語話者が lower one's eyes に感じないはずの、隠匿のかすかな残響がある——と、ここまで書いて自分で疑わしくなります。語源的な連想は、現代の書き手や読者に本当に届いているのか。「本を伏せる」と「目を伏せる」を同じ棚に置いて読んでいる人が、どれほどいるのか。多義語の他の語義は、たいていの場面で沈黙しています。
それでも訳しにくさは残ります。残る場所が語彙ではなかった、というだけです。東アジアの文脈では、目を伏せることが長く礼の作法として制度化されてきました。漢語に「低眉順眼」という言い方があり、仏教彫刻の伏し目もこの系列に連なります。上位者を正視しないことが敬意の表明である、という規範が動作に貼りついている。一方、西洋の小説で伏せられる目は、多く羞恥・服従・敗北の側に読まれます。同じ筋肉の動きが、社会的には別の記号として流通してきた。翻訳者は lower one's eyes を「目を伏せる」と置き換えられますが、その語に貼られたコードまでは持ち込めません。読者が自分の側のコードで読み直してしまうからです。
日本語側の装備をもう少し見ておくと、「伏し目」という名詞形があり、「伏し目がち」という形容の型がある。動作が名詞に固まり、さらに頻度の副詞的な修飾を受けて、性格や習慣の記述にまで届いている。英語の downcast eyes も形容として働きますが、こちらは状態の描写にとどまり、人物の恒常的な傾きまでは一語で背負いにくい。日本語では「伏し目がちな人」と書くだけで、その人物の対人姿勢が一つ決まります。
だとすれば、日本語で書くときに決めておくべきことは一つです。目を伏せたその人物が、礼を示しているのか、恥じているのか、単に見たくないものから降りているのか。動作だけを置けば、読者はそれぞれの規範で埋めます。地の文が一語でも方向を示せば埋まらない。訳しにくいものは、たいてい書くときにも指定を要求してきます。