拍で数えると九拍あります。ほぼ同じ内容を「目を逸らさずに」と書けば七拍、「じっと」なら三拍で足りる。意味の差はほとんどありません。差があるのは、読者がその区間を通過するのに要する時間のほうです。文体を量として眺めるとき、いちばん扱いやすい指標がこの長さで、しかも最も見落とされやすい。書き手は意味を選んでいるつもりで、実際には所要時間を選んでいる場合がある。
日本語の文は述語が末尾に来ます。だから文頭側に長い修飾句を置くと、読者は述語の到着まで判断を保留し続けることになる。「目を逸らすことなく、彼は答えた」では、九拍を読み終えるまで何が起きるのか確定しない。この保留は、負荷にもなり、緊張にもなります。どちらに転ぶかは、待たされた先に何が置かれているかで決まる。待った末に重い一手が来れば緊張、軽い動作が来れば単なる渋滞です。修飾句の長さは、後続への約束手形のようなもので、額面に見合わない支払いは印象に残ります。
日本語の韻文は、七音と五音を単位にしてきました。この二つの長さには、読み手の中にあらかじめ枠がある。「目を逸らさずに」の七拍は、その枠にそのまま収まります。収まるということは、長さを長さとして意識されないまま通過するということでもある。九拍にはその枠がありません。定型に乗らない長さは一句として処理されず、途中で区切るか、区切らずに抱えたまま述語を待つかの二択を読者に渡すことになります。七拍と九拍の違いが、たかだか二拍の差以上に感じられるとすれば、理由はおそらくここです。音韻論では二拍をひとまとまりとする単位が語形成の基礎にあるとしばしば説明されますが、句の水準で効いているのは、その下の単位よりも、定型として使い古された長さのほうだと思います。
長さと並んで効くのが、置く位置です。同じ九拍でも、文頭に置けば読者は述語まで全区間を保留したまま進み、述語の直前に置けば、主語や状況をすでに受け取ったうえで最後の一拍だけを待つことになる。「目を逸らすことなく、彼は答えた」と「彼は、目を逸らすことなく答えた」では、保留の量が違う。前者は九拍ぶんの空白に読者を置き、後者は残り時間を短く区切る。文の長さは同じでも、負荷の形が変わります。読点を打つかどうかも同じ層の判断で、打てば区間が確定し、打たなければ後続と地続きになる。
とはいえ、減速帯を置けば緊張が生まれるという言い方は雑です。減速は、前後に速い区間があってはじめて減速になる。全体が遅い文章の中にこの句を置いても、何も起きません。もう一点、同じ九拍でも、三拍の短い語を三つ並べた場合とは効き方が違います。並べた場合には区切りが三つあり、読者はそのつど小さく着地できる。この句では途中で降りられません。「目を」「逸らす」「ことなく」と文節の切れ目はあるのに、最後の四拍が来るまで、視線を外したのか外さなかったのかが確定しないからです。日本語の否定は末尾に来ます。長さが同じでも、途中に着地点があるかどうかで負荷は変わる。
運用に落とすと三つです。この句を置く直前の数文は短く保つ。短い文が続いたあとに九拍の修飾句が来ると、そこで呼吸が変わります。同じ場面で二度使わない。減速帯は一本目が効き、二本目からは道の一部になる。そして、三拍の「じっと」で足りる場面ではないかを一度疑う。六拍の差は、その場面では捨てても、別の場面で使える余力になります。文体の設計とは、結局のところ、限られた時間をどこで使うかの配分の問題です。