意味と形のあいだに小さな矛盾を抱えた表現、というものがあります。躊躇の不在——即断即行——を言うために八拍を費やして進む「ためらうことなく」は、その代表格でしょう。迷いのなさを、これほど悠然と引き延ばす形式はほかにない。ただしこの矛盾は欠陥ではなく、近代の書き言葉が歩んだ道の刻印です。
「〜ことなく」という否定の形は、日常の話し言葉にはまず現れません。口頭なら「ためらわずに」で足りるからです。それでも地の文や式辞や記事の一行には、この迂遠な形が居座り続けています。理由の一つは、形式名詞「こと」を挟むことで、否定の的が動作の一回から、その行為が起こりうる余地そのものへ広がる点にあるでしょう。ためらわずに進んだ、なら報告されているのは一度きりの動作です。ためらうことなく進んだ、と書けば、迷う余地が最初から無かったように読める。三拍ぶん遠回りした形式が、否定の射程を一段広げているわけです。そもそも「ためらう」は、た・め・ら・う の四拍を要する和語で、否定の形式を付ける前から既に長い。八拍のうち半分は動詞そのものが占めています。遅さは接尾の側だけの問題ではないということです。
否定にはもう一つ、書き手が見落としやすい副作用があります。否定された当のものが、読者の頭に一度立ち上がってしまうことです。象を思い浮かべるなと言われた人が象を思い浮かべるのと同じで、書かれた否定はまず肯定の像を結ばせ、そのうえで消しにかかる。この句を地の文に置いた瞬間、読者の内側にはためらう姿が一瞬だけ現れ、次の行で取り消されます。「すぐに刀を抜いた」と書けば、迷いははじめから画面に入りません。八拍を費やしてわざわざ否定を選ぶのは、その現れて消える一瞬を読者に見せるためだと考えることもできます。迷わなかったと書く文は、迷う余地が確かにそこにあったことを、同じ一行で報告している。人物の胆力を書いたつもりの句が、状況の重さのほうを描いてしまうことがあるのは、この副作用のせいです。
ほぼ同義の漢語系「躊躇なく」と並べてみると、性格の違いは音でわかります。ちゅ・う・ちょ・な・く の五拍のうち二つが拗音で、口の中で詰まったまま速く抜けていく。和語のこの句は八拍あり、狭い母音が少なく、詰まりも一つもないぶん遅い。同じ内容を運ぶ二つの句が、まるで違う速度を持っているわけです。地の文の速度を漢語と和語の配合で調整するのは古くからの手ですが、否定の言い回しはその中でも振れ幅の大きい部類に入ります。
同じ和語の系列の内部にも、長さの階段があります。「ためらわず」は五拍、「ためらいもなく」は七拍、そして表題の句は八拍。意味の差はごく薄いのに、拍が増えるほど文章語としての改まりが増し、動作の記述はゆっくりになる。この階段は、否定の形式が「ず」から「なく」へ、さらに形式名詞を挟んだ迂遠な形へと膨らんでいく、日本語の否定表現の歴史的な積層をそのまま並べたものでもあります。一つの意味の上に、時代の違う三つの地層が同時に露出している。書き手はそこから好きな深さを選べます。
視点の問題も、この句には最後までついて回ります。ある人物にためらいが無かったと、いったい誰が知っているのか。心の中で何も起きなかったことを保証できるのは、その内側に入れる語り手だけです。三人称の全知の語りなら難なく書けますが、一人称で使うと、自分の迷いの不在を自分で申告する形になり、どこか弁解じみた響きが出ます。近代の小説が語りの権限を問いはじめて以降、この種の一句は、内面へのアクセス権がどこに置かれているかの目印として読めるようになりました。視点人物から遠い相手にこれを当てれば、書き手はうっかり越権を犯すことになる。外から見えるのは動作の速さだけで、迷いの不在は見えないからです。速さで書くか、不在で書くか。文体の好みに見えて、実のところは語りの位置の申告です。
そしてこの速度差は、そのまま描写の道具になります。一瞬の決断を、最も遅い句で書く。すると行為は一瞬なのに記述は長いという乖離が生まれ、読みの体感はスローモーションに近づきます。刃が鞘を離れるまでの無音の動作にこの句を添えると、時間が薄く引き延ばされる。逆に速度を殺したくない場面では、漢語で詰めて一気に通過させればいい。迷いのない人物を書くとき、書き手のほうは大いに迷ってよいのです——どの速さの否定を使って、その迷いのなさを書くのかを。