英語の wolf は動詞になります。wolf down と言えば、がつがつ掻き込むように食べることです。日本語の狼は動詞になりません。この獣を使って何かを言おうとすると、比況の形を借りるしかない。言語ごとに、どの品詞の窓口が開いているかが違う——この差は語彙の量の問題ではなく、その社会がその動物とどう関わってきたかの反映であることが多い。動詞化が起きるのは、その行動を人間が日常的に真似たり指差したりする機会があった場合です。食べ方が動詞になった言語では、狼の食事が身近な観察対象だったということになります。
窓口の開き方には、言語の作りそのものも関わっています。英語は名詞をそのまま動詞に転用する型を広く許す言語で、dog が追い回すことを、fox がだますことを、parrot がそっくり繰り返すことを表します。語形を変えずに品詞だけを移せるので、獣の名はいつでも動詞の候補です。日本語ではこの転用がほとんど起きず、動物名は複合語か慣用句の側へ回されます。猿真似、蛇行、狐につままれる——名詞のまま別の語に組み込むか、句として固定するかの二択です。この違いは、比喩の解像度に直結します。動詞化された獣は行為を一つに固定してしまう。wolf down が指すのは食べ方だけで、目つきや孤独はそこに入りません。対して比況の形は、何が似ているのかを名指さないまま読者へ渡します。似ている点を決めるのが書き手か読者かという、担当の違いです。
慣用句を並べると、含意の分布が見えます。羊の皮を着た狼は聖書に由来し、狼が来たと嘘をつく少年はイソップの寓話として広まりました。飢えを凌ぐことを「狼を戸口から遠ざける」と言う言い回しもある。ヨーロッパの複数の言語には、噂をすればという意味で狼を持ち出す表現が伝わっています。これらに共通しているのは、狼が牧畜と人里の境界に立つ脅威として扱われていることです。家畜を守る側の視点から見た獣であり、比喩の中心には貪欲と欺瞞が置かれている。牙そのものよりも、牙を恐れる側の暮らしのほうが語に刻まれています。
日本側の事情は、この点でかなり違います。この列島では、狼が猪や鹿を退ける存在として神格化された例があり、大口真神の名で祀られ、山中の神社の護符に姿を残しています。田畑を荒らす獣を食べてくれる側として遇されていた面がある、ということです。牧畜が産業の中心でなかったことと無関係ではないと考えられています。したがって日本語で受け継がれた含意には、単なる害獣ではない、畏怖と孤高の成分が混ざっている。夜の山にいて、こちらを見ている——そういう距離のある像です。
さらに厄介なのは、実物がもう居ないことです。ニホンオオカミは二十世紀初頭に絶滅したとされ、最後の記録は明治期の奈良県の個体とされています。以来百年以上、この国の書き手はほとんどの場合、生きた個体を見ないままこの比喩を使ってきました。何を参照しているかといえば、翻訳文学の中の狼と、絵画や写真の中の狼です。つまり現代日本語のこの比喩は、生態からではなく物語から組み立てられた像を指している。原語の側では実物と地続きだった語が、こちら側では最初から二次的な像になっている。
だから訳しにくさは、単語の対応表の問題として現れません。wolfish grin は「狼のような笑み」でほぼ届きます。貪欲でぎらついた表情という含みは、両側で重なっているからです。しかし孤独や誇りを乗せた「狼のような」は、wolfish では出ない。逆方向では、戸口の狼が飢えを指す言い回しが、狼の比喩としては訳せません。訳出のときに落ちるのは語ではなく、その語が背負ってきた土地の履歴のほうです。牧場を持たなかった言語と、狼を神の使いとした言語のあいだで、同じ四本足が別々の重さを持っている。
実務としては、この句を置くときに、どの層を呼び出しているのかを自分で決めておくことになります。牙と食欲の層なら、比喩は原語とほぼ同じ幅で働き、翻訳調の文章にも馴染む。群れを離れた孤高の層なら、それは日本語の側で育った像なので、周囲の描写を山や夜に寄せないと支えが立ちません。二つの層は両立しないわけではありませんが、同じ一文で同時に呼ぶと、読者はどちらを取るか決められないまま先へ進みます。四本足を出すなら、その足がどの土地を歩いてきたのかを、先に決めておいたほうがいい。