なぜこの句は、声に出していないのに音量が下がって聞こえるのでしょうか。意味が弱さを指しているから、と答えるのは早い気がします。同じく弱さを指す語と並べても、この句だけがもう一段下がって感じられる。私にはそう感じられる、というだけの話かもしれないので、そこは留保します。ただ、留保したうえでも、音の側に何かがあるのではないかという疑いは残ります。意味だけなら、これほど差がつく理由がない。
口に出してみると、七拍のうち前半の三拍が、i と e という前寄りで開きの小さい母音で占められています。開きが小さければ、同じ息の量でも音圧は上がりにくい。加えて、この句には濁音が一つもありません。破裂の強い子音もなく、途中に入るのはラ行の弾き音で、これも息を強く止めない音です。大きく読もうとすると、口の形を作り直す必要が出てくる——構えを変えずに大声を出せない配列になっている。音読すれば自然に小さくなるのは、たぶん偶然ではありません。
音の質と印象の対応については、古くから報告があります。二十世紀の前半に行われた古典的な実験では、mil と mal のような対を示して大きさを判断させると、i を含むほうが小さいものとして選ばれる傾向があったとされます。同種の対応は複数の言語で繰り返し観察されていて、狭い母音と小ささのあいだに、弱いながら安定した結びつきがあるらしい。日本語については、濁音が大きさや重さの印象と結びつくという報告もあります。この句に濁音がないことは、その点でも効いている可能性がある。
長さも効いています。この句はちょうど七拍で、日本語の定型が好む単位にそのまま収まる。だから、地の文の途中に置いても拍が乱れず、読者はここで引っかからずに通過します。引っかからないというのは、比喩として意識されないということでもある。八拍や九拍の言い回しなら、読み手はいったん立ち止まって表現を吟味する。七拍で滑り込む句は、吟味を経ずに情景の側に紛れ込む。効き方が穏やかなのは、意味が穏やかだからではなく、拍が定型に乗っているからかもしれません。
ただ、音だけで説明しようとすると足をすくわれます。この句は意味の側からしてすでに弱い。消えるという動詞に、内側へ入っていくという方向が足されている。外へ広がるのではなく、内へ向かって減っていく運動が語の中に書き込まれている以上、音の寄与だけを取り出すことはできません。音と意味を切り離した対照実験でも組まない限り、どちらがどれだけ効いているかは決められない。ここは決着をつけずに置きます。
決められないまま、それでも残る観察が一つあります。書き手が読者の発声を——黙読のときにも働く内的な発声を——設計できる範囲は、かなり狭い。語順や句読点で速度を操作することはできても、声の大きさまで届く手段は多くありません。この句は、その狭い範囲に入っている数少ない表現です。だからこそ、地の文で繰り返すと効きません。一つの場面に一度、声そのものを描くときだけに置く。音の設計は、頻度を落とすことでしか守れない。