日本語の動詞のうち、ナ行変格活用に属するのは二語だけです。「死ぬ」と「往ぬ(去ぬ)」。複合語を除けば活用表のこの欄はこの二つで埋まり、残りは空白になります。四段、上二段、下二段と整然と並ぶ表の中で、そこだけが妙に痩せている。文法史の教科書では例外として一行で片づけられる箇所ですが、例外が二つしかないというのは、例外としても少なすぎる気がします。
なぜこの二語なのか。並べてみると意味が近い。片方は生から離れること、もう片方はこの場から立ち去ること。どちらも「ここに居たものが居なくなる」という一点で重なります。意味が近いから活用も同じなのだ、と言いたくなる——けれども、その説明は順序が怪しい。活用の型は音形の歴史が決めるもので、意味が形を選ぶわけではありません。ナ変の成立を、助動詞「ぬ」や他の活用との関係に求める試みは古くからありますが、決着はついていないようです。だからこの一致は偶然かもしれない。ただ、偶然だと言い切った瞬間に、この表の空白は何も語らなくなります。
相方の行方も見ておく値打ちがあります。往ぬ、去ぬは共通語からほぼ姿を消しましたが、絶えたわけではありません。関西を中心とした地域に「いぬ」の形で残り、帰る、立ち去るという意味で使われています。同じ型に属した二語のうち、片方は日常の中心に居座り、片方は地域と古語の側へ退いた。去るという中身が日々の用事のなかに居場所を持ち続けたぶん、方言では意味のほうが先に生き延びたのでしょう。しかも、残ったほうも例外の座を降りつつあります。現代語で活用を書き出すと、死なない、死にます、死ぬ、死ぬとき、死ねば——ナ行の五段動詞とほとんど区別がつきません。文語で連体形が死ぬる、已然形が死ぬれとなっていた箇所が、口語では平らに均されたからです。活用表にあいた穴は、いまでは古語の側にしか残っていないことになります。
和語としての語源も確定していません。張りが失われる方向の語と結びつける見方が古くからある一方で、音韻の対応を厳密に追うと苦しい、という指摘もある。語源説が割れていること自体が、少し示唆的です。生活の中で最も古くから使われてきた語ほど、由来をたどる手がかりが摩滅している。使用頻度の高い語は不規則化しやすく、そのまま不規則な形で保存される——英語の be や go が同じ振る舞いをします。ナ変という孤立も、この語が途切れずに使われ続けたことの痕跡として読めなくはない。
漢字の側から見ると景色が変わります。「死」の左側の「歹」は崩れた骨を表す部分とされ、この部首を持つ字には損なわれることに関わるものが集まる。骨という、最後まで残るもののほうを部品にして、失われる事態を書いている。和語がおそらく張りの喪失を思わせるのに対し、漢字は残骸の側から同じ一点を指す。同じ一語に、逆向きの二つの捉え方が重ねられているわけです。音読みのシのほうは、死角、死語、必死のように、生き死にから離れた比喩へ広く伸びています。訓の側には、その伸びがほとんどありません。訓読みという仕組みは、こういう二重化を日本語のあちこちに残しました。
漢字とともに入ってきた言い換えの層も厚くなっています。往生、成仏、遷化、入滅は仏教の語彙が持ち込んだもので、いずれも行き先や到達を名指すことによって、出来事そのものを言わずに済ませる形です。往生は浄土へ行って生まれることを指し、遷化は高僧について使われます。制度と儀礼の側からは、逝去、永眠、死去といった漢語が並ぶ。こちらは書式のための語で、案内状や記事の欄に収まるように整えられています。仏教語は行き先を、事務の漢語は手続きを引き受けた。どちらの層も、中心の一語には触れないまま、周りだけを厚くしていきました。もっと古い層は、和語の側にあります。
上代から、この語を避ける言い方も揃っていました。身罷る、隠る、失す。いずれも本体を言わずに周辺だけを言う形式で、そして婉曲は使われるほど直接的になり、また新しい言い換えを呼びます。現代の「亡くなる」も、その長い列の途中にあるにすぎません。列がこれだけ伸びたのに、中心の一語は活用の孤島に残ったままです。小説でこの動詞を素のまま置くと文が急に硬くなるのは、たぶんそのせいでしょう。周りに厚い層があるぶん、素の形は層を突き破ってきたものとして読まれる。使うか避けるかは、その硬さを場面が引き受けられるかどうかで決まります。