しくしく、めそめそ、わあわあ、おいおい、ぐすぐす。日本語で泣き声を写す語を並べると、二拍の反復という同じ鋳型に収まっていることが分かります。反復は継続を表し、濁音は重さと粗さを、清音は細さを担う——しくしくとわあわあの距離は、意味の説明より先に音のほうが作っている。和語の泣きの語彙は、音の設計だけで強度の目盛りを持っているわけです。目盛りの刻みは細かく、書き手はほとんど意識せずにそこから一つを選んでいる。しかしこの鋳型には限界もあります。反復形は音を写す語であって、動作を名指す語ではない。誰かが泣いたという事実を記述したい場面では、別の系統の語が要ります。そこで漢語が呼ばれます。
オエツという音は反復を持たず、三拍で完結します。しかも最初の二拍には子音がありません。母音だけの拍が二つ続いてから、破擦音のツで閉じる。日本語の語彙で語頭から母音が二つ並ぶ形は多くなく、そのほとんどは古い和語です。漢語でこの形が現れるのは、原音の頭子音が日本語に取り込まれる過程で失われたためだと説明されます。結果として、この語は口の構えをほとんど作らずに発音できる。唇も舌も動かさないまま、息を出すだけで前半が終わってしまう。声に出して確かめると、発音の労力が最後の一拍に片寄っているのが分かります。語の重心が末尾にある、と言い換えてもいい。音の輪郭がはっきりしない語だという印象は、この重心の偏りから来ているのかもしれません。
対照すると性格がはっきりします。慟哭はドウコクで、カ行の破裂が二度あり、拍の頭が固く立ちます。声を外へ放つ語です。むせぶは唇を二度閉じる語で、マ行とバ行が息の道をふさぐ。破裂で外へ出すか、閉鎖でせき止めるか。泣きの語彙は、口のどこで息を扱うかによって分かれている、という見方ができます。そのどちらにも属さず、息の漏れとして前半が過ぎていく語が一つある。興味深いのは、この三つが文の中で同じ位置に立ちにくいことです。慟哭は事件の直後に置かれ、むせぶは持続する場面の途中に置かれる。音の作りと、場面の中での時間的な位置が、ゆるやかに対応している。偶然にしてはよくできた対応です。
拍数はリズムにも効きます。三拍の語幹にサ変が付いて五拍、活用させても五拍前後を保ちます。「泣いた」の三拍と並べたとき、この長さは文の速度を確実に落とす。地の文で使えば、その一文だけ流れが粘ります。短い文が続く緊迫の場面に投げ込めば異物として目立ち、長い描写の中に置けば風景に溶ける。漢語動詞は意味の強さで選ばれがちですが、選んだ瞬間に文長と句読点の設計まで変わることは、実際に書いてみるまで気づきにくい。五拍の語を一つ抱え込んだ文は、それだけで長くなります。読点を打たずに済ませるのは難しく、打てば呼吸の切れ目が一つ増える。語を一つ選んだつもりが、段落の呼吸まで決めていた。推敲で削られる語の多くは、この種の連鎖に負けたものです。
声を殺して泣く場面にこの語が収まりやすいのは、意味がそう定義されているからだけではないのかもしれません。破裂音を持たず、息の漏れとして始まる音の作りが、こらえきれずに外へ出てしまった音という内容と食い違わない。音象徴の効果は言語によって差があり、どこまで一般化できるかは慎重に見るべきです。同じ意味の語が別の言語でまるで違う音を持つ例はいくらでもある。それでも、一つの言語の内側で語を選ぶ書き手にとっては、音と意味の一致した語ほど場面に居座りやすいという経験は残ります。居座らせたくない場面では、あえて音の合わない語を選ぶ手もある。泣いている人物を突き放して書きたいとき、破裂音の多い語を当てると、読者と人物のあいだに距離ができます。