目を擦るを英語にすれば rub になり、靴の先を擦ったなら scuff、焦げついた鍋なら scrub か scour、膝を擦りむいたなら graze のあたりに落ちます。日本語では同じ一語だったものが、訳した先で別々の動詞に散っていく。しかも逆方向の作業では、英語の四語を日本語の四語に対応させる必要がありません。片方向にだけ分岐が起きる。この非対称がどこから来るのかを、しばらく考えていました。
すぐに出てくる説明は、英語の接触動詞が様態を語の中に抱え込んでいる、というものです。力の強さ、接触の目的、結果として何が起きるか。rub と scrub の差は力と目的の差で、それがそのまま動詞の選択に直結している。対して日本語は動詞を素のまま保ち、様態を副詞と擬音語の側に預けます。ごしごし擦る、そっと擦る、何度も擦る。運ばれる情報の総量は変わらないのに、預け先が違う。訳しにくさは情報が欠けることではなく、預け先を再配置し損ねたときに起きる、と言えそうです。
他の言語も覗いておくと、これが英語だけの事情ではないと分かります。中国語では、おおまかに言って、手のひらを合わせてこするのは搓、指で押しながらもむのは揉、布や紙で表面をぬぐうのは擦、砥石にかけるのは磨と、字のほうが分かれる。搓、揉、擦、磨——やはり様態と道具が動詞の内側に入っています。移動を表す動詞については、様態を動詞に畳み込む言語と経路を畳み込む言語とを分ける類型論がタルミーによって立てられていますが、接触の動詞はその枠組みそのものではありません。ただ、様態という情報をどこに預けるかという問いの立て方は共通しています。日本語は移動でも接触でも、様態を動詞の外へ出す側に寄っている。
ただ、この整理はやや雑です。日本語にも磨く、拭う、さする、削るがあり、様態を抱えた動詞が存在しないわけではない。反論としては十分に強い。そこで数ではなく別のところを見ると、日本語のこの一群は文体の位相がばらけています。拭うは文語寄りで、さするは日常語、磨くは日常語だが目的と結果が限定される。英語の manner verb 群がおおむね同じ位相に横並びしているのと対照的です。訳しにくさの所在は、語彙の有無よりも位相の揃わなさにあるのかもしれません。様態を選ぶと文体まで一緒に動いてしまうので、書き手は二つの軸を同時に決めさせられる。
擬音語の側はもっと露骨です。ごしごし、こすこす、しゅっ、きゅっ。英語訳ではたいてい副詞か比喩に置き換えられ、音そのものは残りません。日本語の文はここで、意味とは別の水路から身体感覚を運んでいます。訳して落ちるということは、裏を返せば、原文でしか使えない資源だということです。翻訳の可否とは無関係に、日本語で書く側はここを意識的に使える。動詞を変えずに擬音語だけを差し替えれば、同じ動作の温度を段階的に動かせます。焦りも、いたわりも、動詞ではなく音の側で書き分けられる。音に預けた情報には、字幕にも吹き替えにも受け皿が用意されていません。
実務の側では、この配置の差がそのまま分量に出ます。英語から日本語へ移すとき、動詞一語に畳まれていた力と目的を、こちらは動詞と副詞に割って書き直すことになる。scrub の一語が、たわしで力を入れて何度も擦る、に展開される。訳文が原文より長くなる理由のひとつはここにあります。逆向きではその展開が畳み直され、ごしごしとそっとの差が、どちらも rub の一語へ落ちる——段階的につけていた温度は、訳した時点で平らになるわけです。原文で四段階に書き分けたつもりが、訳文には二段階しか残らない。語彙が足りないわけではなく預け先が違うだけ、という整理は、実務の場ではあまり慰めになりません。預け先が固定されている以上、目減りのほうは確実に発生します。
表記も揺れます。擦るは、する、こする、さするのどれにも読めてしまう。文脈で読み分けられる場合が多いとはいえ、読者の速度が落ちる位置に置けば確実に躓きます。擦過傷、摩擦、擦れといった漢語のほうでは音読みのサツが働き、読みは揺れません。訓の側だけが分岐を抱えている。振り仮名を打つか、別の語に置き換えるか、平仮名で開くか。一語の中に読みと様態と位相の三つの選択が同居していて、訳しにくさはその同居の裏返しにすぎません。担っている情報が多い語ほど、他言語へ移すときの取りこぼしも大きくなる。