さする、すべる、すれる、さぐる、そぐ。サ行で始まる動詞を並べていくと、手や物の表面で起きる出来事が妙に多く集まります。摩擦音は狭い隙間を気流が通り抜けるときの音で、口の中で起きていることが、そのまま手のひらで起きていることに似ている——音象徴の研究ではこうした対応がしばしば指摘されます。ただし対応は緩やかで、例外はいくらでも見つかる。殺すも沈むも騒ぐもサ行です。規則ではなく傾向であり、傾向は反例では崩れない代わりに、根拠としても弱い。その前提を置いたうえでなら、この観察は書くときの手がかりになります。
音の骨格を見ると、この語は三拍で、母音は a・a・u と並びます。口を広く開けた音が二つ続いてから、最後に狭い母音で閉じる。対して「ふれる」の語頭は、現代日本語で唯一の両唇摩擦音です。ハ行の子音は歴史的に p から両唇の摩擦音を経て現在の h へ変わったと考えられていて、「ふ」だけが途中の段階を残している。唇で始まり、狭い母音を通り、ラ行の弾き音で終わる。拍数は同じ三でも、口の中で起きている運動の幅がまるで違います。片方は開いた口の奥で鳴り、もう片方は閉じかけた唇の先で鳴る。声に出して並べると、意味の説明を聞く前に差が分かる。
清濁も効きます。この語の語頭に濁点を打つと、ざわ、になる。ざわつく、ざわめく、ざわざわ。同じ子音の清濁が、接触と擾乱を分けている。日本語では濁音が大きさ・重さ・粗さの側へ寄る傾向が知られていて、さらさらとざらざら、きらきらとぎらぎら、ころころとごろごろ、と対を並べれば感触の違いはすぐ確かめられます。清音側に留まっているかぎり、この動詞は軽さと表面性を保っている。付け加えれば、語幹と同じ音形が擬音語としても生きています。木の葉が擦れる音を写す語がそれで、動詞と擬音語が同じ音の並びを共有しているのは、この語の周辺では珍しくない事情です。
もう一つ、この音形には同居人がいます。害する意の「障る」です。気に障る、体に障る、と使うほうの語。表記が分かれているので読むときに混同は起きませんが、音としては完全に同じで、耳で聞くかぎり区別がつきません。触れることと差し障ることが同じ音を共有している事実は、この語の周辺にうっすらとした緊張を落としています。手を伸ばす行為がそのまま侵犯にもなりうるという含みは、まず意味と文脈から来るものですが、音の一致がそれを補強していると考えることはできる。台詞の中でこの動詞を否定形にしたとき——触るな、という一語が異様に強く響くのは、拍の短さと、この同音の影の両方が働いているように思われます。
実務としては、活用したときの伸び方を見ておくと役に立ちます。三拍の語幹は、触った、触られた、触られていた、と形を変えるたびに音が伸びていく。長くなるほど出来事から距離が生まれ、被害や既成事実の含みが乗る。これは意味の問題であって音の問題ではないのですが、音読すると差がはっきり出ます。修飾語との相性も同じで、そっと、という副詞は語頭の子音が動詞と響き合い、ぺたぺた、という擬態語は響き合わずに衝突する。衝突を狙う場面もあるので、どちらが正解ということはありません。台詞では拍数がそのまま発話の速度になるので、地の文と同じ基準で語を選ぶと会話だけが重くなる。意味が同じなら音で選んでかまいません。ただしその判断が使えるのは、意味が本当に同じときだけです。