匂い
【におい】名詞使い分けの視点
「香り」は好ましい評価、「臭気」「臭み」は不快さを明示し、仮名の「におい」は評価を保留できます。「気配」は嗅覚から兆候へ広がった比喩です。広い一語で済ませず、湿った紙、鉄、土など鼻が拾った具体を一つ添えると、場所や事件の予兆が像を結びます。
同義語
同品詞の類義語
類義句
同品詞の慣用的言い換え
直喩変換
「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩
動詞的言い換え
形容詞・副詞を動詞句に変換
婉曲・強調変換
ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)
「香り」は好ましい評価、「臭気」「臭み」は不快さを明示し、仮名の「におい」は評価を保留できます。「気配」は嗅覚から兆候へ広がった比喩です。広い一語で済ませず、湿った紙、鉄、土など鼻が拾った具体を一つ添えると、場所や事件の予兆が像を結びます。
同品詞の類義語
同品詞の慣用的言い換え
「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩
形容詞・副詞を動詞句に変換
ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)
下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。
例文: 甘さとも腐敗とも決められない「におい」が、翻訳家を地下室の前で立ち止まらせた。
英語で鼻に届くものを言おうとすると、選択肢がいくつも並びます。中立に近い smell、やや不快寄りの odor、好ましさを含む scent や fragrance や aroma、はっきり悪い stench。訳語を選ぶ段階で、書き手は好悪の符号を決めさせられます。フランス語でも odeur と parfum が同じように分かれる。ヨーロッパの主要言語では、鼻が受け取る刺激を語彙のレベルで格付けする仕組みが、かなり細かく整っています。
日本語の側は、この格付けを別の場所に置いています。音は一つ。三拍の同じ語形が、好ましいものにも不快なものにも使われる。分けているのは表記です。国字の「匂」を当てれば好ましい側に、「臭」を当てれば不快な側に振れる。ここに翻訳の非対称が生じます。英語から日本語へ訳すときは語彙の符号を表記へ移せばよいのですが、日本語から英語へ訳すとき、書き手が仮名書きを選んでいた場合、符号がどこにも書かれていない。訳者は文脈から符号を復元して、smell と scent のどちらかを選ばなければなりません。仮名書きは、この語においては意図的な保留として機能しうる——原文が保留したものを、訳文は保留できない。
ヨーロッパの主要言語と日本語だけを見比べていると、鼻の語彙が貧しいのは人類に共通の条件のように思えてきます。ところが、そうではないという報告があります。マレー半島の狩猟採集民が話すジャハイ語には、においの種類そのものを名指す抽象的な語が十数語そろっていて、話者は色名を使い分けるのと同じくらい安定してそれらを選ぶ。二〇一四年に発表された調査が、そう指摘しました。焦げたものの類、血や生肉の類、といった具合に、対象の名を借りずに嗅覚だけで自立する語彙があるということです。英語の話者に同じ課題を出すと、答えは「バナナのような」のような対象名への言い換えへ流れていく。この点では日本語も英語と同じ側に立っています。鼻が受け取ったものを、鼻の語彙だけで言い切る手段を持たない。だから翻訳のあいだで実際に受け渡されるのは、においの評価と、それがどこから来たかという出どころの情報です。
字の来歴も、この分業に関わっています。「匂」は日本で作られた国字で、漢字の本場には存在しません。中国語では香・気味・臭などが用いられ、なかでも「臭」は古くは嗅覚一般を指す中立的な字だったとされ、悪臭に限定される方向へ意味が狭まったのは後のことだと説明されます。日本語はその「臭」を悪い側に割り当てたうえで、良い側を担う字を自前で作った。語彙を増やさずに字を増やして符号を表現します。漢字を使う言語ならではの解決です。
もうひとつ、この語には嗅覚の外へ出る用法があります。古語の動詞形は、色が美しく照り映える意味で使われる例が知られています。いろは歌の冒頭の一句がその代表で、あれは香りではなく、咲き誇る花の色の話だと解されるのが通例です。語源についても、赤系統の色を指す語と、外に現れ出るさまを指す語との複合とする説があります。視覚から嗅覚へ、あるいは両方を含む「外へ現れ出る」という広い意味から分化した、と考えると、現代語の比喩用法の座りがよくなる。
構文の側にも、訳文を悩ませる仕掛けがあります。日本語では、においがする、と言える。誰が嗅いだのかを述べないまま、感覚が発生したという事実だけを置く形です。英語で同じ内容を運ぼうとすると、嗅ぐ主体を立てて I smell と書くか、対象を主語にして It smells と書くかを選ばされる。どちらを取っても、原文になかった視点が一つ増えます。三人称の地の文では、この差がそのまま効いてきます。主体を書かずに済む言語では、においは場面そのものの属性として床に置ける。主体を立てる言語では、においは必ず誰かの知覚として処理される。訳文が原文よりわずかに人称的になるのは、語彙の問題ではなく、この構文の問題です。
その比喩用法こそが、訳しにくさの中心です。都会の、生活の、死の——およそ具体的な分子とは関係のないものを目的語に取って、徴候や気配を指す。英語にも smell of danger のような言い方はありますが、日本語のこの語は、痕跡・雰囲気・予兆までを一語で引き受ける範囲の広さがあります。書く側から見れば、範囲が広いということは、指定が甘いということでもある。何の徴候かを一語で片づけず、鼻が拾った具体を一つ書き添えると、その広さが逆に効いてきます。
文: hakadoru.ai 編集部
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