語の意味は、その語が一緒に現れる語によって知れる。言語学者ファースの言葉として知られる考え方です。辞書の定義から意味を組み立てるのではなく、実際に隣り合う語の分布から意味を捉える。この立場に立つと、語の輪郭は静的な定義ではなく、周囲の語の偏りとして現れることになります。手元に用例の集まりがあれば、意味は数えることのできる対象になる、という発想でもある。
この動詞のガ格に来る名詞を思い浮かべると、範囲は意外なほど狭いことに気づきます。水、血、汗、雨、脂。液体であるだけでは足りません。一滴ずつ落ちる程度の量であることまで、語のほうが要求してくる。量が増えれば「流れる」に移り、勢いがつけば「ほとばしる」に移ります。同義とされる語も、それぞれ別の帯域を持っている。「垂れる」は上から下への経路が連続していることを含み、「零れる」は容器の縁を越えたことを含む。共起する名詞を見比べれば、その帯域の違いは定義を読むより早く分かります。
ところが、この動詞には形容詞のように振る舞う形があります。「滴るような」に続くのは、緑、若さ、色気。液体でないものばかりです。この後続の偏りは、動詞の一般的な意味からは導けません。まとまりとして記憶された連語で、部分の意味を足し合わせても全体にならない。連続する数語の並びを機械的に数える手法をとれば、この形の後ろに現れる語の分布は極端に片寄るはずです。頻度の低い語ほど、こうした固定した組み合わせを抱えやすいという傾向もある。
語形ごとに偏りが違うことも見落とせません。用例を集めて数えるとき、単位を終止形にまとめてしまうと消えてしまう情報があります。連用形が名詞になった「滴り」は、動作ではなく落ちた水そのものを指し、「岩の滴り」のように所在を伴って現れる。過去形は多くの場合、一回きりの出来事として文の焦点に立ちます。同じ見出し語の下に束ねられた形が、それぞれ別の共起を抱えている。語を数えるという作業は、どの単位で数えるかを決める作業と切り離せません。
頻度の低さは、それ自体が共起の性質に跳ね返ります。稀な語は、読者が出会ってきた文脈の数も少ない。文脈が少なければ、読者の中で共起のパターンが揃いやすくなります。「垂れる」や「零れる」なら台所でも雨の日でも出会うので、思い浮かべる場面は人によって散らばる。日常語ほど頻繁ではないこの動詞は、そのぶん読者の予測が立ちやすい語だということになる。読む前から、次に何が来るかがおおよそ決まっている語です。
予測が立つ語は、予測どおりに使うかぎり安全ですが、印象には残りません。外すなら、どの帯域を外すかを選ぶことになります。主語を液体でないものにするか、量の想定をずらすか、固定した連語のほうを崩すか。三つを同時に外せば、読者は像を結べずに立ち止まります。ひとつだけ外せば、残りの共起が支えになって像は保たれる。ただし外しは同じ作品で何度も効きません。共起の狭さは制約であると同時に、外したときの落差を生む資源でもある——資源は、使えば減ります。