握りしめる、噛みしめる、踏みしめる。後ろ半分が共通しているこの一族は、意味の上でもよく揃っています。どれも、前項の動作に「強く」と「持続して」を足す。握るは一瞬でも成立しますが、握りしめるには時間が要ります。噛むは一度でいいが、噛みしめるは顎に力を入れ続ける。踏むと踏みしめるの差も同じで、後者では足裏が地面に留まる時間のほうが延びます。後項の「しめる」はもともと締めるであり、緩みをなくして固定するという、きわめて物理的な語でした。
この後項は、本来の意味をかなり手放しています。踏みしめた雪は締まりますが、噛みしめた悔しさが締まるわけではない。具体的な動詞が、複合の後ろに置かれ続けるうちに、程度や様態を示すだけの要素へ薄れていく。この種の摩耗は日本語の複合動詞にごくふつうに見られる変化で、「〜切る」「〜抜く」「〜通す」なども同じ道を歩いています。強調の役目だけが残り、元の動作は字面の中に化石として残る。
後項をめぐっては、もうひとつややこしい事情があります。文語の使役の助動詞「しむ」が、現代語のなかに「知らしめる」「せしめる」といった形で残っており、耳で聞くかぎり後ろ半分が同じ音になる。この一族の後項を使役だと受け取る誤解が起きても、不思議ではありません。しかし来歴はまったく別で、こちらは他動詞の締めるのほうです。区別は形に出ます。使役の系統では前項が未然形になり、締めるの系統では連用形になる——知らしめる、抱きしめる。別々の道を通ってきた同音の要素が、現代語のなかでたまたま隣り合っているだけです。
一族の中で、この語だけが行き先を変えました。他の兄弟が力の入れ方を言うのに留まっているのに対し、こちらは対象を人にとり、意味を情動の側へ振った。しかも振れた方向が興味深いところです。締めるという語は、縄で締める、首を締めるといった拘束の系統を持っています。表記に「抱き締める」を選べば、字面には拘束がそのまま残る。それでも現代の読者がこの語からまず受け取るのは、拘束ではなく庇護や親愛のほうです。悪い含みを持っていた要素が、複合の中で良いほうへ移る——意味変化の類型でいう良化にあたる動きが、後項だけに起きている。
ただし一族全体が良化したわけではありません。すぐ隣にある「抱きすくめる」は、いまも身動きを封じる側に留まっています。後項が「竦める」であるかぎり、相手の自由を奪う含みが消えない。同じ腕の動作を指しながら、後項の選択ひとつで庇護と拘束に分かれる。前項の「抱く」は、古くは「いだく」の形が中心で、文語の作品では今も「いだく」の姿をよく見ます。「だく」に縮まった形が口語で優勢になり、そこへ強調の後項が付いて現在の形が定着したのは、比較的新しい時期のことだと考えられています。近代以降の口語小説や訳詩のほうが、文語作品よりこの語形に出会う頻度は高い。
一族の顔ぶれをもう一度見ておくと、この語だけが抜け出せた事情にも見当がつきます。後項のしめるを取れる前項は、握る、噛む、踏む、抱くのように、身体のどこかで対象へ圧を掛け続けられる動詞に限られます。走りしめる、読みしめる、眺めしめるとは言えない。そのうえで、目的語に人を取れるのは抱くだけです。握るのは手、噛むのは歯、踏むのは足で、いずれも接触面が身体の末端にとどまるのに対し、抱くは腕と胴の全面を使います。圧を掛け続ける動作であり、なおかつ相手が人でありうるという条件を、一族の中で満たす前項が一つしかなかった。行き先が情動の側へ振れたのは、意味が勝手に動いたというより、空いている席がそこしかなかったからでしょう。
意味が良い方向へ動いた語は、たいてい使われすぎます。読者が肯定的な感情の代表として即座に処理してしまうので、書いても風景が動かない。手垢を落とすなら、後項が捨ててきたはずの原義を呼び戻すのが早い方法です。締めるとは緩みをなくすことでした。だとすれば、書くべきなのは腕ではなく、押し出された空気と、浅くなった呼吸と、布に寄った皺です。緩みが消えるという事態を書くのですから、二人のあいだにあった隙間が何ミリか減ったこと、その減った分だけ服の内側が窮屈になったことを書けば足りる。腕の形そのものを描写しても、読者の側にはもう新しい情報が届きません。一族の他の兄弟が今も物理的に振る舞っていることが、その手がかりになります。