同じ一つの動作を書くのに、原稿の上では少なくとも四つの姿があります。投げつける、投げ付ける、なげつける、そして表外字を使った書き方。音は変わりません。意味も辞書の上では変わりません。それでも組み上がった紙面を見比べると、行の中で目が止まる位置が違ってきます。表記の選択は、内容ではなく読む速度に効く——校正の現場でこの語がしばしば統一対象になるのは、そのためです。
送り仮名の目安になっているのは、一九七三年(昭和四十八年)の内閣告示「送り仮名の付け方」です。この告示は、複合語をどう書くかについて通則を示しつつ、慣用が定まっているものはそれに従うという逃げ道も残しました。実務では、後ろに付く動詞が補助的な役割に退いているとき、仮名で書く傾向が強くなります。押しつける、言いつける、叩きつける。これらを漢字で「押し付ける」と書くと、付着という原義がわずかに前へ出てくる。投げるほうの語も同じで、漢字で送ると「投げて、付ける」という二つの動作の連結に見え、仮名で送ると一続きの勢いに見えます。連結か一続きか。表記だけで、その差が出る。
もう一段さかのぼると、漢字そのものの制限にぶつかります。同じ系統の意味を担う「擲」「抛」は、常用漢字表に入っていません。放擲という熟語は残っていても、日常の文章では読み手を選びます。抛物線が放物線と書かれるようになったのは、一九五六年に国語審議会が示した「同音の漢字による書きかえ」の考え方が広まった結果で、これは表記史の教材によく出てくる例です。使える字が減ったぶん、日本語は仮名の側で分業するようになった。表外字が退場した空白を、送り仮名の長さが埋めている。
仮名表記そのものを選ぶという道もあります。全部を仮名で書けば、漢字の担っていた意味の切れ目が消え、音だけが残る。児童向けの文章や、幼い語り手の一人称で使われるのはそのためですが、副作用として語の切れ目が読み取りにくくなります。日本語には分かち書きの習慣がないため、漢字が語境界の標識を兼ねている。標識を外せば、読者は音を追いながら区切りを推定することになり、そのぶん速度が落ちる。仮名書きが軽やかさを生むとはかぎらないのは、この負担があるからでしょう。
視覚的な効果は、字種の交替のリズムとして説明できます。日本語の文は漢字と仮名が交互に現れることで語のまとまりを示していて、漢字の塊は視線の停留点になります。漢字一字に仮名四字が続く形は、停留を一度だけ置いて、あとは滑らせる。逆に漢字が二つ並ぶ形は、短い区間に停留点を二つ置くことになり、そこで速度が落ちる。激しい動作を書いている最中に速度が落ちるのは、たいてい書き手の意図と逆です。動きの語ほど仮名で送られやすいという慣用は、この経験の蓄積かもしれません。
だから表記の統一は、単なる体裁の問題ではなく設計の問題になります。一つの作品の中で表記が揺れると、読者は無意識に「ここは違う書き方だ、何か意味があるのか」と探し始める。意味のない揺れは、意味を探させるぶんだけ損をする。逆に言えば、揺らすことに意味を持たせられる場面もあります。地の文では仮名で送り、ある人物の手記だけ古い字体と漢字送りで通す——そうした使い分けは、注釈なしでその文章の書き手が別人であることを伝えます。表記は音を運びませんが、書いた人の手つきを運ぶ。