「彼は舌打ちして、足元の小石を蹴った。」原稿を読んでいて、この一行に当たると手が止まります。文法的にはどこも悪くない。情景も見える。にもかかわらず、読者の目はここで加速して通り過ぎてしまう。書かれているのに読まれない一行というものがあって、これはその典型です。まず疑うべきは動詞ではなく、動作と感情の対応が固定されていることのほうでしょう。舌打ちと小石の組み合わせは、苛立ちという語のほとんど正確な言い換えになっている。読者は動作を見ているのではなく、動作を経由して「苛立ち」という単語を受け取っているだけです。
とはいえ、記号化した動作をすべて避ければよいというものでもありません。読者が一瞬で理解できることには価値がある。場面の主題が別のところにあって、人物の状態だけ手短に通知したい箇所なら、記号のまま使うのが正しい。問題は、その一行に重さを持たせたい場面で記号を置いてしまうことです。判断の基準は語の善し悪しより、その段落が読者の速度をどう設計しているかです。加速させたいのか、減速させたいのかを見ます。
この動詞の扱いにくさは、目的語を要求するところに集約されます。何を蹴るかで、同じ語がまるで別のジャンルへ移動する。地面を蹴れば跳躍の起点になり、前へ進む身体が書かれます。扉を蹴れば暴力であり、扱われているのは他人の領域です。椅子を蹴るのは怒りの表出でありながら、その椅子が誰の座っていたものかで意味が変わる。砂を蹴るのは所在のなさ。目的語は情報量のほとんどを担っていて、動詞自体はそこに運動の質——足で、下から、あるいは横から、体重を乗せて——を加えているにすぎません。手垢がついているのは目的語の選び方だったと考えると、直しの方針が見えてきます。
同じ動詞が感情から完全に切り離される場所も、すぐ隣にあります。競技の実況や技術解説では、この語は一日に何十回も現れながら、色を帯びません。右足で蹴る、内側で蹴る、浮かせて蹴る。問題になるのは当たる面と角度と回転だけで、蹴った本人の心情を読み取ろうとする聞き手はいない。生活の描写では感情の記号として働き、競技の記述では純粋な技術語として働く。語そのものに苛立ちが含まれているわけではない、ということがここではっきりします。色を付けているのは、文脈と目的語のほうでした。だとすれば、色を抜きたいときの手つきも、競技の記述の側から借りられることになります。当たった面と角度だけを書けば、読者は感情の名札を渡されないまま、動作そのものを見ることになる。
比喩用法にも同じ構造があります。要求を蹴る、案を蹴る。拒絶が足の動作で語られるのは、手で払うより無造作で、相手の側に身をかがめる必要がないからでしょう。会議の場面でこの語を使うと、実際には誰も足を動かしていないのに、その人物が椅子に深く沿ったまま処理したという姿勢の情報が漏れてきます。ここは書き手にとって取り分の大きい部分で、「断った」と書くのと「蹴った」と書くのとでは、権力の傾きの示し方が違う。ただし多用すると、その人物が常に上位にいる印象だけが残ります。
この比喩には、文体の階層という縛りもかかっています。要求を蹴る、とは書けても、敬語には乗らない。「ご提案を蹴らせていただきます」は、丁寧語の形式を整えたところで文として立ちません。拒絶の中身が乱暴だからではなく、語そのものが公的な場から締め出されているからです。同じ内容を書面に残すなら、却下する、見送る、といった語に置き換わる。つまりこの語が地の文に現れた時点で、語り手は公的な記録の外側に立っていることになります。議事録には出てこない語を、地の文のほうが選んだ。その選択自体が、語り手の距離と体温を読者へ告げる情報になります。時代物で身分の高い人物の視点にこの語を置くと落ち着きが悪いのも、同じ理由からでしょう。
実務的な処方をひとつだけ書いておきます。感情の翻訳としてこの語を使うのをやめ、身体の物理として書き直してみる。どちらの足か、どの高さで当たったか、蹴られたものがどこまで転がって何に当たって止まったか。三つのうち一つでも書き込むと、読者の目は減速します。転がった小石が側溝の蓋にぶつかって、思ったより大きな音を立てた——そこまで書けば、苛立ちという単語は一度も出てこないまま、その人物が音の大きさに自分で驚いた事実まで運ばれます。動詞を替える必要は、たいていありません。