「痛み入ります」と言われて、相手が怪我をしていると受け取る人はいません。恐れ入ります、とほぼ同じ意味で使われる挨拶です。「痛快」「痛烈」「痛感」も同様で、これらの熟語に含まれる「痛」は身体の感覚を指していません。指しているのは、程度のはなはだしさです。漢語の「痛」には副詞のように「ひどく」「深く」を表す用法があり、日本語に取り込まれた熟語にはその働きが残りました。痛感するとは深く感じることであって、感じているあいだ身体が疼くわけではない。
和語の側にも同じ層があります。古語の形容詞「いたし」の連用形「いたく」は「ひどく」「非常に」の意で用いられ、現代語にも「いたく感心した」という言い方で生き延びています。副詞化した形だけが古い意味を保存し、本体の形容詞は身体感覚へ移った、という形です。程度の甚だしさが先にあって、身体の痛覚はその適用先のひとつだった——そう並べ直すと、語の輪郭が変わって見えます。広い意味を持っていた語が、最も典型的な適用領域に吸い寄せられ、そこを本義として定着させる。意味の縮小と呼ばれる変化にあたります。
和語のほうには、表記による分岐もあります。いたむ、と読む動詞は、現代の書き分けでは三つに割れる。痛む、傷む、悼む。身体の苦痛、物の劣化、人の死を悲しむこと。語源的には同じ語だったとみる説が有力ですが、漢字を当てる段階で用途ごとに別の字が配られ、いまでは互いに別語のように扱われています。表記が意味の境目を作った例と言ってよいでしょう。面白いのは、仮名に開けば一語に戻ってしまうことです。いたむ、とだけ書かれた文では、どの意味かを文脈から決めるしかない。三つの現象を一つの語で捉えていた時代の感覚が、仮名の側にだけ残されている恰好になります。
ところが、縮小した語はまた外へ出ていきます。「痛い出費」「痛いところを突かれる」「痛手を負う」。ここでの痛みは身体ではなく、損害であり弱点です。比喩による拡張ですが、向かった先は元の程度性ではなく、損傷という具体的な像のほうでした。さらに近年は、人の振る舞いを評する用法が広がっています。この場合、痛みの持ち主が入れ替わる。苦痛を感じているのは当人ではなく、それを見ている側です。事態の記述だった語が話し手の評価を担うようになり、しかも価値の下がる方向へ動いた。語の悪化と呼ばれる現象の、比較的新しい実例だと言えます。
名詞形の側は、形容詞とは違う範囲を歩いてきました。痛みという語は、心の痛み、成長の痛み、改革の痛みというように、身体から遠い場所でも無理なく使われます。ところが形容詞へ戻して、心が痛い、改革が痛い、と言えば据わりが悪い。名詞形は損害や困難を指す一般名として広がれたのに、形容詞のほうは感覚の報告という仕事に縛られたままです。相撲の痛み分けも名詞の側の用法で、負傷を理由に勝負を預ける処置から、双方が損を負って引き分けるという意味へ広がりました。同じ語幹から出た二つの形が、別々の速さで身体を離れていったことになります。この差は書くときにも出ます。人物の困窮を地の文で言うなら名詞形が広く使え、台詞で言わせるなら形容詞のほうが身体に近い。同じ内容を、どちらの形で置くかで、話者が痛みを外から眺めているのか内側で感じているのかが分かれます。
注意したいのは、これが一本の直線ではないことです。程度性のまま残った漢語(痛感・痛切)、身体に定着した和語(痛む)、損害へ出ていった慣用(痛手・痛い目)、評価に転じた新しい用法。これらは順番に置き換わったのではなく、いまも同時に流通しています。語の歴史は上書きではなく堆積で、古い層は下に沈んだまま消えない。層があるということは、書き手はそのどれを鳴らすかを毎回選んでいる、ということでもあります。選んでいる自覚がなければ、選ばれるのはいちばん手前の層です。
だから、痛みを書くときに効くのは強度の高い語ではありません。「胸が痛む」と「胸をえぐられる」の差は強さの差ではなく、層の差です。前者は身体の層に留まり、後者は損傷の像を呼び出す。「骨身に堪える」は身体の語でありながら、持続と蓄積という時間の情報を足してくる。層を指定しないまま平板な一語を置けば、読者は最も摩耗した層——日常の軽い痛覚——に落として読みます。どの層で鳴らすかを一語手前で決めておくこと。それだけで、同じ痛みが別のものになります。