診察室には、痛みの強さを尋ねるための物差しがあります。いまの痛みは十段階でいくつですか、と数字で答えさせる方法が広く使われている。ところが痒みについて患者が語ろうとすると、出てくるのは数字ではなく比喩です。蟻が這うようだ、羽虫が触れるようだ、肌の下で何かが疼く——本人にはこれほど確かな感覚が、外からは一切観測できない。この観測の非対称は、実は「かゆい」という語の文法にまで刻み込まれています。
日本語では「私はかゆい」とは言えるのに、「彼はかゆい」は落ち着かず、「彼はかゆがっている」と、様子から推し量った形に直したくなります。感覚や感情の述語に働くこの人称の制限は、認識の構造をなぞったものです。自分の痒みには直接届くが、他人の痒みには振る舞いを通してしか届かない。誰が何を知りうるかという認識論の問題に、語形の選択という文法の問題がきれいに対応している。論理学が真偽を問う前に、日本語は主張してよい範囲を先に区切っているわけです。
哲学はこの非対称をさらに深く掘りました。ウィトゲンシュタインの有名な思考実験に、箱の中の甲虫があります。全員が自分の箱だけを覗いて「甲虫」と呼んでいるなら、箱の中身が各人で違っていても、言葉のやりとりは成立してしまう——私的な感覚を指す語は、感覚の中身ではなく、外から見える振る舞いと結びついて意味を保っている、という議論です。この語が通じるのは、掻くという公的な行動が語を裏打ちしているからで、感覚そのものを見せ合えたことは一度もない。裏打ちの仕組みは、ごく小さな日常の場面にも顔を出します。背中に手が届かず誰かに掻いてもらうとき、人は「もう少し上」「そこじゃない、右」と指示を出す。自分にしか分からない一点の座標を、外から見える手の位置との誤差修正だけで伝えようとしているわけです。座標そのものは決して渡せない。渡せるのは、当たったか外れたかの返答だけ。「かゆいところに手が届く」という言い回しが行き届いた気配りの比喩になったのも、この当てにいく作業の難しさを誰もが知っているからでしょう。
この語の周りには、論理の教材にしたいような構造がもうひとつあります。掻けば鎮まり、掻いたせいでぶり返す。「掻かなければ、とっくに治まっていたのに」という反実仮想は、しかし当人には検証できません。掻かなかった世界の同じ痒みを、もう一度生き直すことはできないからです。条件文の前件を満たす世界が原理的に手に入らない。同じ形の条件文は、後悔の文法一般に共通します。あのとき言わなければ、あの角を曲がらなければ。前件を満たす世界が二度と手に入らないという点で、後悔はすべて検証不能です。痒みが特異なのは、その検証不能の実験を、数分おきに何度でも繰り返せることでしょう。そのうえ、満たすことがそのまま次の発生を呼ぶ——充足が自らを裏切る欲求として、痒みは欲望一般の縮図めいた形をしています。
書く側にとっての要点は二つです。第一に、他人の痒みを直接書けないという文法の制限は、視点の制限とそのまま重なる。三人称の地の文なら、「がる」や仕草を経由するか、視点人物の内側へ入るかを選ぶことになります。第二に、痛みは瞬間で書けるが、痒みは持続と分裂でしか書けない。掻きたい、掻いてはいけない、いま掻いてしまった、また始まる——この小さな往復運動は、退屈な待機の場面に体温を与えるのに向いています。掻いてもらう場面なら、効きはもう一段上がる。手の届かない一点を他人に委ね、誤差を口で修正しあう短い応酬のあいだ、二人は互いの身体の内側を推し量り続けることになります。痛みの場面が沈黙を呼ぶのに対し、痒みの場面は言葉を呼ぶ。叫びは要らない。指先の動きだけで足ります。