障子を開けると庭が見える。その庭がどれくらいの大きさなのかを、書き手はどう書くか。江戸までの散文なら、坪や間、あるいは「三間ばかり」といった尺度が入ります。数で示せば読者は寸法を得ますが、そこに情感は乗りません。近代の小説がやったのは逆のことでした。数を捨て、視界のなかで縁がどこにも見つからないという事実だけを差し出す。この転換の前後で、空間を表す和語の形容詞は仕事の内容が変わりました。
文語では「ひろし」というク活用の形容詞が担っていた領域を、漢文脈の語彙が上から覆っていた時期があります。曠野、渺茫、無辺——漢語は権威と格式を帯びていて、風景を描くとなればまずそちらが呼ばれた。和語の口語形は、日常の会話や実務の文書にはいたのに、文学の地の文には据わりにくかった。それが言文一致の運動を経て、口語形容詞のまま地の文に立てるようになります。漢語の語彙は消えたわけではなく、装飾や誇張の位置へ退いた。現代の書き手が「宏大な」「茫漠たる」を使うと文語調に聞こえるのは、その退却の記憶が語のほうに残っているからです。
移行期の実例として分かりやすいのは、国木田独歩の『武蔵野』です。林と野の広がりを主題にしながら、面積の数字はほとんど出てきません。代わりに置かれるのは、歩いて曲がった先で視界がどう変わるか、どの道を選んでも林がまだ続いてしまうことの繰り返しです。地名だけは律儀に並ぶのに、広さのほうは一度も測られない。測る代わりに置かれるのは、歩いた時間と、曲がった回数です。この作品が、二葉亭四迷の訳したツルゲーネフの短篇の林の描写を引いていることはよく知られています。翻訳された散文の呼吸を借りて、日本語で林を書く手つきが用意され、空間の形容詞が地の文に据わるようになったのは、その延長だと見ることができます。広さの語彙は、思想としてではなく、まず文体の問題として更新された。
柄谷行人が『日本近代文学の起源』で提示した「風景の発見」という見方があります。風景は昔からそこにあったのではなく、内面を持つ主体が成立したときに、対象として発見されたのだ、という議論です。この見立てを借りると、空間の形容詞が心理の指標に転じる仕組みが見通しやすくなる。縁の見えない海や野原は、それを見ている人物の内側の空白と同じものとして書かれるようになった。だから近代以降の小説では、空間の大きさを述べた一文が、そのまま人物の状態の記述として読まれます。読者はもう寸法を求めていません。
同じ時期に、この形容詞は身体と社会の側へも広がっていきます。顔が広い、心が広い、視野が広い、間口が広い。どれも面積の話ではなく、接続できる相手の数や、受け入れられる幅の話です。空間の語彙が人間関係の語彙になるとき、評価は原則として正の側に振れる。ただし例外があって、部屋が広すぎるとき、この語は寂しさの記述に反転します。人間の数に対して器が大きすぎる状態を、日本語は形容詞を変えずに、程度の副詞だけで言い分けている。「広い部屋」と「広すぎる部屋」のあいだにあるのは、面積ではなく人口密度です。
数を捨てたという整理には、はっきりした反例もあります。近代以降の日本の小説がもっとも精密に書いてきたのは、広い場所ではなく狭い場所のほうでした。下宿の四畳半、三畳の間、階段下の物置。ここでは畳数という寸法がそのまま文面に出てきて、しかも情感を失いません。四畳半と書けば、面積と一緒に、家賃の水準も、同居人との距離も、そこに住む人物の身分の見当までが伝わります。つまり数が情感を殺すのではない。読者が目盛りを共有している数だけが、情感を運べるのです。畳という単位が身体の寸法から出ていることも効いているはずです。一畳はおおよそ人ひとりが横になれる大きさで、四畳半はそれが四つ半ぶん——数えた先に身体が待っている単位になっている。狭さの側にはその共有がまだ残っていて、広さの側では失われた。坪や間で庭を書いても現代の読者に像が立たないのは、単位が古びたからというより、身体の側がその目盛りを手放したからでしょう。
そこで実務上の判断がひとつ出てきます。空間の大きさを書くとき、数を出すか、縁の不在を書くか、密度を書くか。数は正確ですが情感を乗せません。縁の不在は情感を乗せますが、近代文学が百年かけて使い倒したぶん、手垢が濃い。残るのは密度で、これは意外と使われていない。椅子の数、聞こえる足音の数、返ってくる声の回数——面積を一度も言わずに広さを立てる方法は、まだ空きが多い場所です。