校正の現場では、この言い回しに赤が入ることがあります。本来の形は「あららげる」であって「あらげる」ではない、という指摘です。形容詞「荒し」から派生した動詞に「荒らぐ」があり、それを他動に振った形が「荒らげる」。仮名を振れば、ら行が二つ続いて「あららげる」になります。国語辞典の多くは今もこの読みを先に立てていますし、放送や朗読の分野では長くそちらが規範とされてきました。ところが口にする側では、ら行の連続がひとつ落ちた短い形がすでに広く行き渡っています。文化庁の国語に関する世論調査でもこの語形の揺れが取り上げられたことがあり、規範と実態のずれを確かめられる例として知られています。
同じ音が続くときに片方が落ちる現象は、日本語にかぎった話ではありません。英語の pacifism は、成り立ちからいえば pacific に -ism が付いた pacificism になるはずですが、繰り返される音節がひとつに畳まれた形で定着しました。言語学ではこの種の脱落を重音脱落と呼びます。舌の運動として無駄な往復が省かれるだけの、地味で確実な力です。そして重要なのは、この力が語の使用量に比例して働くこと。よく使う語ほど早く短くなる。滅多に口にしない語は、長いまま辞書の中で保存されます。短くなったという事実そのものが、その言い回しが日常的に使われてきた証拠になっているわけです。
規範が保たれる場所は、実のところかなり限られています。読み上げる仕事——放送、朗読、舞台——では今も長い形が指導されますが、黙読で流れていく文字面では、送り仮名が一字あるかないかしか問題になりません。「荒らげる」と印刷されていても、読者の頭の中では短いほうの音が鳴っていることがある。表記が古い形を保存し、音のほうは先へ行ってしまう。近年の辞典には、短い形を誤用と切り捨てず、慣用として広く行われていると注記するものもあります。規範と実態の距離は、辞典が実態のほうへ少しずつ歩み寄ることで縮められてきました。歩み寄りには順序があります。まず併記が現れ、次に慣用という但し書きが付き、やがて但し書きが外れる。この語は今その二段目あたりにいて、辞書の中では長い形が先に、実際の口の中では短い形が先に立っている。同じ語が二つの順序を同時に抱えている状態は、そう長くは続かないはずです。
語形が縮むあいだに、この動詞が引き受ける目的語のほうも痩せてきました。原義から考えれば「荒くする」ですから、対象は声に限られなかったと考えられます。しかし現代語で自然に言えるのは、ほぼ声だけです。手つきを荒らげる、とは書きにくい。語形の摩耗と、共起する名詞の絞り込みが並行して進んだことになります。慣用句化した表現ではよくある道筋で、「にべもない」の「にべ」や「途方に暮れる」の「途方」が単独では生きていないのと同じく、部品が全体に吸収されて独立性を失っていきます。ひとまとまりで覚えられた表現は、内部の分解可能性を手放す。
語族の中での役割分担も見ておきます。荒れる、荒らす、荒々しい、荒っぽい。この一族はどれも広い対象を取り、荒らすなら畑も家も場も荒らせます。ところが他動詞のこの形だけが、ほとんど声としか結びつかない。同じ語根から出た兄弟のうち、一つだけが特定の目的語に縛りつけられて、慣用句の内側へ収まった格好です。縛られた代わりに得たものもあります。目的語が決まっているぶん、書き手はそこに説明を足す必要がない。声、と一語置けば、あとは読者が場面を組み立てる。狭さは不便であるとは限らず、圧縮率の高さとして働くこともあります。そのかわり、輪の外へ出ようとすると途端に不自然になる。語気を荒らげる、なら辛うじて通りますが、態度や筆致には掛かりにくい。共起の輪がどこで途切れているかを知っておくと、慣用の内側で書くのか、あえて外へ出て違和を作るのかを選べます。
書き手にとっては、この揺れが表記の選択肢として使えます。「荒らげる」と送れば硬く、やや古い層の文章に見え、「荒げる」なら現代の口語に近づきます。時代物の地の文と現代物の会話文で選び分ける余地がある。もうひとつ、意味の側にも注意が要ります。この語が指しているのは音量ではなく音色です。怒鳴る、喚くは量の語ですが、こちらは声質が刺々しくなることを言う。会話文がすでに大声を含んでいる場面で地の文に重ねると、同じ情報が二度書かれることになります。声の何がどう変わったのかを一語ぶんだけ具体にする。それだけで、同じ台詞が別の温度で読まれます。