弔辞を読む人が、二行目で止まることがあります。紙は両手で持たれたまま、口だけが動かない。数秒の空白があって、それから続きが読まれる。その場にいた誰もが、いま何が起きたのかを正確に理解しています。ところが、それを文字にしようとすると、日本語の定型はほとんど一つしか用意していません。声を詰まらせた、と書く。書いてしまってから、この定型がずいぶん奇妙な形をしていることに気づきます。止まったのは喉であって、その人ではない。それでも日本語は、止まった喉の持ち主のほうを主語の位置へ引き上げます。
英語の小説で、感情が高ぶって言葉が出なくなる場面に出会い、日本語に移そうとして手が止まったことがあります。原文では声のほうが主語に立ち、喉で引っかかったと書かれている。人物は文の中で何もしていません。ところが日本語の定型に移すと、人物が主語になり、声は目的語に落ち、しかも動詞は使役の形をとる。詰まった、ではなく、詰まらせた。誰も望んでいないはずの現象が、当人の行為として記述されてしまう。訳文が座らないというより、責任の所在が原文と違ってしまうことのほうが気になりました。
この形は孤立していません。涙を流す、顔を赤らめる、身を震わせる、眉をひそめる。日本語には、意思で制御できない身体の変化を他動詞で書く型がいくつもあります。並べてみると、制御できるものとできないものが同じ文型の中に混ざっているのが分かる。眉をひそめるのは半ば意識的にできますが、赤らむのはできない。にもかかわらず、両者は同じ格の並びで書かれます。文法の側は、随意か不随意かをここでは区別しない。
使われ方には人称の偏りもあります。この型は三人称の観察として書かれることが多く、一人称で自分の身に起きたこととして書くと、どこか報告調になって座りが悪い。不随意の現象を、当人が使役の形で自分に帰属させることになるからです。同じ型の他動詞にも似た傾向があって、顔を赤らめたと自分について書けば、その瞬間を外から見ていたことになる。語り手が自分の身体を他人の目で眺めている——この視点の跳躍が、一人称の語りでは小さな段差として残ります。回避したければ自動詞へ戻せばよく、声が出なかった、と書けば段差は消える。消えるかわりに、堪えていたという含みも一緒に消えます。三人称で書けば観察になり、一人称で書けば申告になる。同じ出来事が、人称を替えるだけで種類の違う文へ変わります。選べるのは人称だけでもありません。詰まらせる、震わせる、上ずらせる、掠れさせる。声にかかるこの一群はどれも同じ使役の枠を共有していて、入れ替わるのは変化の中身だけです。枠が共通しているぶん、書き手が選んでいるのは現象の種類であって、責任の配分ではない。どちらへ倒すかは、枠を選んだ時点ですでに決まっています。
そう書いてから、日本語に特有の話にしすぎていないかと疑います。英語にも涙を流すことを他動詞で言う言い方はあり、身体の変化を所有者の行為として述べる構文は各言語にあります。特有なのは型の存在ではなく、使役の接辞をわざわざ挟むことのほうでしょう。詰まる、という自動詞がすでにあるのに、それを使役化して人物を主語に据え直す。自動詞のまま「声が詰まる」と書くこともできるのに、多くの書き手が使役形のほうを選ぶ。この選好が何を運んでいるのかが、残った問いです。
視野を漢語圏に広げると、像そのものは共有されているらしいと分かります。中国語で嗚咽を表す語に使われる字の一方は、食物などが喉に引っかかることを指す字です。喉を管と見て、そこが塞がるという捉え方は、日本語の「胸が詰まる」「言葉に詰まる」「息が詰まる」の系列とよく重なる。一方、西洋の言語では窒息や絞扼にかかわる語がこの場面に呼ばれることが多く、外から締められる像に寄ります。内から塞がるか、外から締まるか——同じ現象に、方向の違う二つの像が当てられている。
像は借りられても、文法は借りられません。日本語でこの表現を書くとき、書き手は人物に半分だけ主体性を渡していることになります。完全な受動ではないから、その人が何かを堪えていることになる。完全な能動でもないから、堪えきれなかったことも同時に伝わる。抑えようとして抑えきれない、という二重の運動が、動詞の形だけで載る。感情の噴出そのものを描くより、この半端な位置のほうが場面としては強い。訳しにくさの正体は語彙ではなく、この受け渡しの角度にあります。