居間で音がして駆けつけると、花瓶が床で割れている。そばに立つ子どもが言う。「壊れた」。壊しちゃった、ではなく。助詞の使い分けさえまだ怪しい年齢の子が、この言い換えだけは驚くほど正確に運用します。文法の教科書より先に、言い訳の文法が身につくらしい。
日本語は自動詞と他動詞のペアが体系的に揃った言語です——割る/割れる、消す/消える、落とす/落ちる。他動詞の文には動作主の席が用意されますが、自動詞を選べば、出来事は誰のせいでもなく、ただ起こったことになる。英語でも the cup broke という自動詞的な言い方は可能ですが、日本語はペアが網の目のように揃っているぶん、どちらを選んだかが常に相手から見えます。「壊れました」という報告は、事実の伝達と同時に、自分は動作主ではないという含みを運ぶ。しかも明言はしていないので、あとから否認する余地が残る——語用論で推意と呼ばれる現象の、教科書的なふるまいです。
動作主を消す装置そのものは、日本語の専売ではありません。スペイン語には、皿が割れたことを「私に割れてしまった」の形で述べる構文があり、話し手は割った者ではなく、その出来事に見舞われた者として文に入ります。英語では受動態がその役を負い、行為者を書かない謝罪の言い回しは政治の場面でくり返し批判されてきました。出来事と行為者を切り離す仕掛けは、どの言語も一つは持っている。ただし日本語では、その仕掛けが特別な構文ではなく、日常の動詞そのものに組み込まれている点が違います。語彙の水準で選択肢が用意されているので、文法的な準備なしに責任の重心を動かせる。この操作を、日本語の話者は極端に安く手に入れています。
「壊れている」という形になると、話し手はさらに一歩遠くへ下がります。この「ている」は進行ではなく、変化の結果が残っている状態を表す用法です。報告者はもはや出来事そのものに触れず、目の前の状態だけを述べる。いつ、誰が、どうやって、という物語の材料は最初から省かれている。状態の報告は、出来事の報告よりもう一段、責任の所在から遠いのです。同じ理屈で、「壊れてしまった」の「てしまう」は、取り返しのつかなさを添えながら、意図の不在をも同時に主張します。悔いの形式が、そのまま免責の形式を兼ねている。詫びられたのか報告されたのか、聞かされた側には判じにくい一言になります。
もっともこの選択は、責任逃れのためだけにあるのではありません。「これ、故障してますよ」と店先で指摘するとき、自動詞的な言い方は相手の顔を立てる装置として働いています。誰の落ち度かを問わない形にすることで、指摘が告発にならずに済む。同じ事態を「誰かが壊しましたね」と言えば、発話は報告から追及へ変わってしまいます。丁寧さとは、しばしば動作主を文から静かに退場させる技術のことです。家電の取扱説明書や保証書を開くと、この技術が徹底されているのが分かります。破損した場合は、故障が生じたときは——条件節に主語はなく、誰が壊したかは最後まで書かれない。使用者を責めず、製造者も名乗り出ない中立の文体は、自動詞と受身の組み合わせで作られています。
人間関係を語るときにも、この選択は静かに働きます。「二人の関係は壊れた」と地の文に書けば、破局は天災のように、誰の行為でもなく訪れたことになる。人に向ければ含みはさらに濃い。「あの人は壊れてしまった」は、人を器物の側へ置く比喩であり、修理という発想を呼び込む冷たさと、では誰がそうしたのかという消された問いとを同時に運びます。動作主を消す文法は、消したという痕跡までは消せない。読み手は空白になった主語の席を自然と探し始めます。しかも気づくのはたいてい一拍あとで、「壊れた」を読んだ瞬間には出来事だけが入り、次の行あたりで、では誰が、という問いが遅れて立ち上がる。この遅れの長さは、書き手の側から設計できます。
台詞を書くとき、人物にどちらを言わせるかは性格描写そのものになります。自動詞を選ぶ人物は自分を守り、他動詞を選ぶ人物は引き受ける。同じ人物でも、上司の前と友人の前で選択が入れ替わるなら、その揺れ自体が造形になります。動詞の自他は世界の描写の問題に見えて、実のところ話者の態度の描写である。花瓶の前の子どもは、それを誰に教わったわけでもないのに知っていました。母語の文法には、倫理の練習問題が最初から組み込まれています。