よく書けてるね、と言われた相手が、視線を外して「いや、そんな」と言う。手が首の後ろへ行き、口元だけが少し動く。この一連の反応は、ほめられた内容を否定しているようでいて、否定していません。むしろ、ほめが届いたことの受領証として機能している。何も反応しなければ、ほめた側は自分の言葉が空振りしたと感じます。だから受け手は、内容を軽く打ち消しつつ、受け取ったことだけは示す——この二重の仕事を、一つの短い反応が同時にこなしています。
対人的なやりとりを面子の観点から扱う議論では、相手を肯定的に評価する行為は、相手の欲する自己像を支える働きを持つとされます。ただし支えられた側には、同時に負債が生まれる。受け取りっぱなしにすれば貸し借りが偏り、強く否定すれば相手の判断を否定したことになる。日本語圏の会話では、この板挟みを謙遜の定型でさばく慣行が発達しました。定型があるおかげで、その場で言葉を探さずに済む。そして定型が定型として機能するためには、言っている本人が本気で否定しているわけではないことが、双方に了解されている必要があります。
この語の面白さは、そうした場面で起きている状態を名指す語でありながら、名指した瞬間に構造が変わる点にあります。一人称で「照れている」と言うのは、言えなくはないけれど、言った時点で状態から一歩外に出ている。感情を表す語には人称による制約がしばしば見られ、内面の直接報告と、外からの観察とで形を変えることが知られています。この動詞は形の上ではどちらでも使えますが、自己申告すると、当人が自分を観察する視点を獲得したことになり、そこで照れは半分解けます。だから会話の中では、たいてい他人が名指す。
名指しは働きかけでもあります。「照れるなよ」と言うとき、話し手は相手の状態を指摘することで、その状態を解除しようとしている。ところが実際には、名指された側はいっそう反応が強くなることが多い。指摘によって、自分が見られていたという事実が上乗せされるからです。解除を意図した発話が、逆向きに作用する。語用論が扱う含みの問題の中でも、これはかなり分かりやすい例で、字面の意味と、その発話が場に生じさせる効果とが、はっきり食い違っています。
字の側から見れば、この語は「照る」と地続きです。顔が明るくなる、という身体変化を出発点に持つ語で、隠したい状態が顔面で自動的に開示されてしまうという矛盾を、語形そのものが抱えている。隠したいのに光る。この矛盾が、小説で使いやすい理由でもあります。
実作上の要点は、視点との相性です。三人称で人物を外から見ている場面なら、この一語で十分に足ります。ところが一人称や、視点人物に密着した三人称では、事情が変わる。語り手が自分について「照れた」と書いた瞬間、その語り手は自分を外から眺めていることになり、密着していたはずの距離が一段開きます。それを避けたいなら、名指さずに身体だけを書く。首の後ろへ行く手、途中で切れる返事、無意味に整えられた袖口。逆に、距離を開けたい場面では、この一語をあえて置く。視点距離を測る道具として、これほど反応の速い語は多くありません。