短文投稿サービスの日本語版で、投稿がこの動詞の名詞形で呼ばれていた時期があります。公開の場へ文字を書き込む行為に、小声を含む語が当てられた。しかも大きな違和感なく定着した。文字には音量がないのですから、本来なら通らないはずの命名です。それが通ったということは、語の中身のうち音量ではない部分が主役だったことになる——出発点としてはここが使えそうです。
意味を分解すると、少なくとも三つの成分が見えてきます。声が小さいこと、宛先がないこと、そして不満が含まれること。三つとも揃った場面がいちばん典型的で、机の前で誰にともなく愚痴を漏らす姿を思い浮かべればいい。ただし典型から離れた用法も普通に使われますから、一つずつ欠いてみると、どれが中心かの見当が付きます。大声で独り言を言う人をこの動詞で書くのは苦しい。宛先を明示した小声の発言は、「〜ように」という比喩の形を借りないと収まらない。ここまでだと、音量が骨に見えます。
ところが冒頭の命名がそれを崩します。文字に音量がない以上、そこで受け継がれたのは宛先の不在のほうでした。誰に向けたわけでもない言葉を、読まれる場所に置くという行為。この一点だけで転用できたのなら、宛先のなさこそが骨で、音量は骨に付いてくる肉に近いのかもしれません。小声で話すのは、たいてい誰にも届けるつもりがないからです。ついでに言えば、独り言という語のほうは中立で、音量も評価も指定しません。同じく宛先を持たない行為を指しながら、片方だけが情感を運ぶ。
別の語と並べると、同じ結論が別の角度から出てきます。囁くは音量の成分をこの動詞と共有していますが、宛先については正反対です。耳元で囁く、と書けば相手がいる。耳元で呟く、と書くと妙な文になります。相手の耳に近づいておきながら、その相手には向けていないことになるからです。音量が同じで宛先だけが違う——この一組を並べたとき、二語を分けているのが音量でないことは動かせません。ついでに、囁くには秘密の含みがありますが、それは聞かれたくない第三者がいるという設定から来るもので、宛先を持つ側の語にしか成立しないものです。誰にも向けていない発話は、そもそも隠す相手を持ちません。
不満の成分については判断が付きません。これが語の意味なのか、それとも世界の側の偏りなのか。人が誰にともなく小声で何かを言うとき、その内容は不平であることが多い、という統計的な事実が語に染み込んでいるだけかもしれない。もしそうなら、それは意味ではなく含みです。反例を探すと、祈りや呪文を小声で唱える場面はこの動詞で書けますし、そこに不満はありません。ただし、祝辞をこの動詞で書くと途端に妙になる。不満そのものではなく、聞かれることを前提にしない内容かどうか、という条件のほうが効いている可能性がある。ここは決めきれないまま置いておきます。
語形と共起の側にも、同じ性質が刻まれています。この動詞は発話の中身を「と」で受けます。何かを呟いた、ではなく、何々と呟いた。引用節を取るということは、口から出たものが言語として確定しているという指定です。声の出し方だけを言う語ではない。そのうえで、直前に置かれる副詞句には強い偏りがあります。誰にともなく、独り言のように、口の中で。宛先を打ち消す表現が定型のように張り付いていて、しかも重複には感じられません。意味の中に既にある成分を副詞句が繰り返しているのに冗長にならないのは、その成分が語の中心にあって、なお強めるに値すると話者が感じているからでしょう。派生名詞にも跡が残っています。呟きは行為だけでなく、口から出た内容そのものを指せる。誰かの呟きが聞こえた、と言うとき、聞こえたのは動作ではなく一つの文です。音量を落として内容だけを取り出せる名詞形が先にあったから、文字の投稿へ名前を貸すことができました。
創作の実務に引き戻すと、摩耗の理由が見えてきます。会話文の末尾にこの動詞を置く書き方が飽きられるのは、三つの成分のうち音量だけを担わせるからです。台詞の内容が既に宛先を持たず、しかも不満を含んでいるなら、動詞は「言った」で足ります。逆に、明確に相手へ向けられた台詞にこれを付けると、読者は矛盾の処理を押し付けられる。動詞で音量を指定するのをやめて、場面の側に宛先の不在を作ればいい。誰も反応しない一拍を置くだけで、たいていは足ります。