常用漢字表に採られている字は二千百三十六。二〇一〇年の改定で百九十六字が加わり、五字が外れて、この数になりました。そこに「囁」は入っていません。だから新聞記事や役所の文書では、この動作は必ず仮名で書かれます。小説では逆に、漢字で書かれることのほうが多い。同じ日本語の中で、媒体によって見た目が完全に切り替わる語です。表外字であることは、使えないことを意味しません。使う場所が限られること、そして限られた場所では逆に選ばれやすくなることを意味します。制度が押し出した字が、文学の側に居場所を見つけた例は他にもある——排除は、しばしば専有に変わります。
字の作りを見ると、仮名にしたときに何が失われるかが分かります。旁の「聶」は耳を三つ重ねた字で、それ自体が耳を寄せて小声で話す意を持つと説かれます。そこに口偏を加えたのが「囁」で、耳が三つ、口が一つ。人が寄り集まって一人が話す図が、そのまま文字になっている。仮名で書けばこの図は消え、音だけが残ります。表記の選択は、意味の一部を見せるか隠すかの選択でもある。もっとも、読者がこの字解きを意識しながら読んでいるわけではありません。意識されないまま、密度の高い黒い塊として目に入るだけです。字源の知識は、書き手が選ぶときの根拠にはなっても、読者が受け取る効果とは別のものだと考えたほうがいい。
版面の上では、画数がまた別の働きをします。「囁いた」の三文字は、行の中で明らかに黒い。「ささやいた」の五文字は薄く、横に長い。声を落とす場面に、行のなかでいちばん重い塊を置くことになるわけです。この不一致を嫌って仮名に開く書き手もいれば、黒い一点があるほうが読者の視線が止まってよいと考える書き手もいます。どちらが正しいという話ではなく、文字面が読む速度を変えるという事実だけが動かない。縦組みと横組みでも印象は変わります。縦組みの一行は短く、黒い三文字の比重が上がる。画面で横に流れる文章では、同じ三文字がもう少し軽く見えます。媒体を決めてから表記を決める、という順番のほうが実は理に適っています。
送り仮名も表記史の一部です。この語は語幹に漢字一字を当て、活用語尾から送るという原則にきれいに収まるので、揺れがほとんど起きません。交ぜ書きが生じないのはそのためです。他の表外字の動詞では、漢字部分を仮名に開いた結果、語幹が分断されて読みにくくなる例がしばしばありますが、この語はその問題を持たない。表外でありながら書き手が漢字を選び続けてきた理由の一つは、おそらくこの扱いやすさにあります。読みが一つに定まることも効いています。複数の訓を持つ字なら初出でルビが要りますが、この字にはその負担が薄い。制度の外にある字が生き延びる条件は、意味の魅力よりも、こうした運用上の軽さのほうにあるのかもしれません。
ルビという逃げ道もあります。初出だけ振って以後は振らないという運用が一般的で、読者に一度だけ読みを渡し、あとは字面の効果に任せる。実務的には、一つの作品の中で表記を混在させないほうが安全です。同じ場面で漢字と仮名が交互に現れると、読者はそこに何かの区別があるのだと推測し、存在しない区別を探し始めます。表記は音を変えませんが、読者の注意の配分は確実に変えている。逆に言えば、意図的に混ぜれば区別を作ることもできる。人間の発話には漢字、風や水の音には仮名、という使い分けを一貫させれば、読者は説明なしにその規則を学習します。決めたら、五十話先まで同じ決定を守るだけの話です。