同じ音を二度重ねると、日本語では対象がしばしば小さくなります。細かく立つ波はさざなみ、控えめな規模はささやか、はっきりしない話し声はさざめき。語頭に「さ」の反復を持つ一群は、大きさではなく粒の細かさを共有しています。反復は継続を表すこともあれば、分割を表すこともある。この一群での反復は後者に近く、対象が細かく割れている状態を写しています。もっとも、同じ「さ」の反復でも、さらさらやざわざわのように、量の多さや広がりのほうへ寄る語もあります。音の効果は固定した規則ではなく、語ごとの歴史と結びついて残っているにすぎない。だから一群としての傾向は言えても、そこから新しい語の意味を予測することはできません。傾向が読み取れるのは、すでに存在する語を後ろから眺めたときだけです。
語の成り立ちについては、いくつかの説が並んでいます。前半の「ささ」を右の一群と同じ要素と見て、後半を状態や動作を作る接尾的な要素と見る分析が一つ。古語の「ささめく」と同根とし、語尾だけが分かれたと見る分析が一つ。どれか一つに決めきれるだけの根拠は、少なくとも一般の書き手が確かめられる範囲にはありません。ただ、どの説を採っても前半に細かさを見る点は共通しています。語源が指しているのは声の大きさではなく、粒の細かさなのだと考えられます。秘密の話を意味する「ささめごと」が近くにあることも、この読みを支えます。秘密は、声が小さいから秘密なのではなく、限られた相手にしか届かないから秘密です。
後半に見える「めく」のほうも、単独で確かめられます。この要素は、ときめく、うごめく、ざわめく、きらめくのように、細かい動きや音が続いている状態を作る接尾辞として広く働いてきました。一度きりの出来事には付きにくい。きらめくは光が何度も瞬く場面に使われ、一閃には使われません。うごめくも、大きな一動作ではなく、小刻みな動きの継続を指します。この性質を前半の細かさと重ねると、ささめくという語形が写している事態が具体的になります。小さな単位が、いくつも、続けて起きている。音量を指定する要素はどこにも入っていない。語形を分解するだけで、この一群が量ではなく粒度の語であることが確かめられるわけです。接尾辞の側から見ても、この語が量ではなく回数と刻みを数えていることが分かります。
そこに「ように」が付くと、語の役割が変わります。動詞は行為を表しますが、様態句になれば行為でなくてもよくなる。風が、灯が、記憶が、囁くようにという形で修飾されるようになる——主語から人間の制約が外れるわけです。同時に、直喩の標識が入ることで、実際には声が出ていない可能性が開きます。声を出さずに何かが伝わる場面を書けるのは、「ように」が現実の発話から一歩引いてくれるからです。この一歩の引きは、副詞句としての位置にも表れます。述語の直前に置けば動作の質を限定し、文頭に置けば場面全体の調子を決める。同じ句が、置き場所によって細部の指定にも情景の指定にもなります。
反対側から確かめると、粒度の軸がいっそうはっきりします。この句の対になるのは「叫ぶように」だと思われがちですが、両者は同じ軸の両端ではありません。叫ぶほうは音量と、一つの塊としての明確さを同時に指定します。粒度の軸で本当に向かい合うのは「はっきり言うように」のほうで、こちらは音量を問わない。つまり音量の軸と粒度の軸は交差していて、大きい声で細かく割れた話し方も、小さい声で一言だけ明確に告げる話し方も、どちらも成立します。四つの組み合わせのうち、この句が占めているのは粒度が細かい側の二つだけです。軸を取り違えると、小声で言わせただけで条件を満たしたつもりになってしまいます。
二つを重ねると、この様態句が指定しているものが見えてきます。指定されているのは小さい声ではなく、細かく分割された、輪郭のはっきりしない伝わり方——つまり粒度のほうです。だから大きな声で話しながらでも、内容が断片的であればこの形は成立しうる。逆に、はっきりした短い一言を小声で言う場面には合いません。命令や宣告をこの形で修飾すると文が滑るのは、そのためです。内容の粒が粗いのに、修飾のほうが細かさを要求している。語源が持っていた細かさの指定が、長い用法の変化を通り抜けて、いまも修飾の条件として残っている。使えるかどうか迷ったら、声量よりも、伝わる内容が割れているかどうかを見ればよいでしょう。