書き上げた原稿を検索にかけて、ある一語の出現位置を一覧に並べてみる。すると、たいてい予想より多い。しかも偏っている。ひとつの段落に三度、次の五段落には一度も出てこない、といったむらが見つかります。書いている最中には気づけません。基本語彙というのは、書き手の指がいちばん短い経路で出してしまう語だからです。文体の癖は、珍しい語の選択より、こうした平凡な語の分布に出ます。
なぜ多用が効かないのかは、情報の量として考えると見通しがよくなります。ある語が現れたときの意外性は、その語の生起確率 p に対して負の対数、つまり確率が高いほど小さくなる量として定義できます。頻度の高い語は予測されやすく、意外性が小さい。読者の視線はそこで止まりません。語の頻度が順位に対しておおよそ反比例するというジップの法則が経験則として知られていますが、その上位帯に居座る形容詞は、まさに読み飛ばされる側にいます。読み飛ばされる語で情景を作ろうとすると、情景が立ち上がらない。
もうひとつ、語の出現は塊になりやすいという性質があります。いちど使われた語は、その近くでもう一度使われやすい——書き手の頭の中でその語が活性化したままだからで、計量的な文章分析では広く観察される傾向として扱われます。厄介なのは、この塊が意図した反復ではないことです。修辞としての反復は間隔を測って置かれますが、活性化による反復は間隔が短く、しかも不揃いになる。読者は理由の見えない繰り返しを、書き手の語彙の狭さとして受け取ります。だから検索結果を眺めるときに見るべきは、総数ではなく、隣り合う出現のあいだの距離のほうです。何字離れているか、段落をまたいでいるか。二つの出現が同じ段落に収まっているなら、片方は必ず疑ってよい。
拍の数も効いてきます。三拍のこの形容詞を名詞に付ければ、修飾語は軽く、注意は名詞のほうに残ります。五拍の語を付ければ、修飾語自体が絵になり、名詞は台座に下がる。同じ内容を伝えても、拍の配分が変われば文の重心が動くのです。短い修飾語を連ねた文は速く読まれ、長い修飾語を挟んだ文は読者の速度を落とす。文長の分布を意図して作る書き手は、この落とし方を場面の緊張と結びつけて使っています。
では全部を具体語に置き換えればよいかというと、そうはなりません。置換には代償があります。黴の匂いを持ち出せば嗅覚が前に出るし、埃を持ち出せば視覚に寄る。旧式だと書けば機能の評価になり、年季が入ったと書けば肯定の色がつく。どれも情報量は上がりますが、同時に感覚のチャンネルと評価の向きを一つに決めてしまう。基本語の無色さは、貧しさであると同時に、まだ何も決めていないという自由でもあります。語り手が対象を評価していない場面では、無色のままが正解です。
だから数える作業の目的は、削ることではなく、どこで密度を上げるかを決めることにあります。ひとつの段落に三度あるなら、二つは無色のまま通し、いちばん効かせたい一箇所だけを具体へ振る。語彙の密度は平均値で効くのではなく、分布の山で効きます。全体を均等に濃くした原稿は、濃いのに単調で、読者は最初の一段落で目盛りを合わせ直してしまう。推敲とは平準化ではなく、山を作る作業だ。