打ち合わせの席で、年長の相手に向かって「豪胆でいらっしゃいますね」と言うと、場の空気が半拍だけ止まることがあります。悪意はなく、内容も明らかに称賛なのに、褒め言葉として完全には着地しない。日本語では、相手の性質や能力を評定してみせる行為そのものが、評定する側を暗に上へ置くからだと説明されます。「お上手ですね」を目上に言いにくいのと同じ構造で、問題は語の意味ではなく、その発話が誰の立場から行われているかという点にあります。同じ語を同僚や部下について第三者に語る場面なら、何の摩擦も起きない。丁寧語を重ねても解消しないのは、丁寧さの度合いと、評価という行為が持つ方向性が、別々の層に属しているからです。
一人称との相性も、はっきり悪い。「私は豪胆だ」と書かれた一文は、内容の真偽より先に、話者の自己評価の高さを読者へ伝えてしまいます。この非対称は褒めと貶しで方向が逆になっていて、臆病だ、短気だ、飽きっぽい、といった語は一人称でむしろ自然に落ち着く。自分について語る限り、日本語は下向きの評価を許して上向きの評価を許さない。ある人物にこの語を自称させれば、それだけで読者は語り手を疑いはじめます——語彙の選択が、そのまま人物評として機能する場面です。手記や独白の形式で書く場合、この一語の可否が視点人物の信頼性そのものを決めてしまう。
この語はまた、語られていない状況を必ず連れてきます。危険があったこと、恐れて当然の場面だったこと。前提と呼ばれるこの種の含みは、文を否定形にしても消えません。「彼は豪胆ではなかった」と書いても、恐ろしい局面が実在したことは残ったままです。逆に、恐れる理由が何もない場面に置くと空回りする。豪胆にコーヒーを注文した、という一文が滑稽なのは、前提が支える台がどこにもないからで、この空振りは意図的に使えばそのまま喜劇の技法になります。読者は語義を読んでいるのではなく、語が要求する状況を先回りして組み立てている。
分布にも偏りがあります。会話の中でこの語を耳にする機会は多くありません。地の文、評伝、歴史を扱う文章に偏り、日常の口語からはほとんど脱落している。しかも述語で使うより連体修飾で現れやすく、「彼は豪胆だ」よりも「豪胆な男」のほうが座りがよい。連体修飾で置かれた評価語は、文の主張ではなく既定の属性として通過していきます——語り手が新たに下した判断ではなく、その世界ではすでに知られていることとして読まれる。「豪胆にも」という副詞的な形も同じ働きで、行動を描きながら評価を挟み込む装置になります。
似た字を持つ「大胆」と比べると、境界がさらに見えやすい。大胆は無謀の側へ倒すことができて、大胆すぎる、という言い方が成立します。ところがこちらは、すぎる を付けると座りが悪い。過剰であることを許さない語は、ほぼ純粋な称賛語だということです。皮肉として反転させるには相当量の文脈が要り、語そのものの力では裏返りません。だから書くうえで決めておくべきなのは、その評価が誰のものかという一点になる。若い部下がそう思ったのか、長年の敵手がそう認めたのかで、同じ二文字の重さは変わる。この語を口にした人物は、対象を照らしたつもりで、自分がどこに立っているかを一緒に照らしてしまいます。