初対面の二人が路上ですれ違い、目が合う。そこに「二人は巡り会った」と書かれていると、文章としては通っているのに、読んでいて軋みます。誤用ではありません。辞書的な意味からは外れていない。それでも据わりが悪いのはなぜかを考えていくと、この語が意味とは別の水準で仕事をしていることが見えてきます。物語のどこに置かれるかによって、成立したりしなかったりする動詞がある。
軋みの正体は、たぶん前提のほうにあります。巡るという動詞は周回や遠回りを含み、この複合動詞は「会うまでに長い経路があった」という履歴を、言わないまま要求します。しかも要求された前提は否定しても消えません。「ついに巡り会えなかった」と書いても、探索が存在したことのほうは残る。前提はそういう性質のもので、だからこそ危険です。読者が経路を一行も読んでいない段階でこの語を出すと、語り手が読者の知らない過去を勝手に主張したことになる。軋みは、その主張を裏づける材料が手元にないところから来ています。
では、いつなら成立するのか。ここで時間の問題ではないことに注意が要ります。作中で十年が経過していても、読者がその十年の捜索を読んでいなければ足りない。逆に、読者がすでに二百ページ分の遠回りを見てきたなら、作中時間が三日でも成立します。担保になるのは物語内の経過ではなく、読者の側に積み上がった記憶の量のほうだ。ただし例外があって、回想体や伝記体のように、語り手が最初から結末を知っている声で語る作品では、冒頭でも使えます。この場合の語り手は既に全経路を歩き終えていて、その位置から振り返っているからです。使用可能かどうかは、語り手が時間軸のどこに立っているかで決まる。
もう一つの厄介は、この語がすでに背負っている連想です。運命、赤い糸、必然。手垢は落としきれませんが、減らす手はいくつかあります。主語を人以外にする——一冊の本、ある地名、忘れていた匂い。あるいは否定形や仮定形でだけ使い、肯定の断定を避ける。もっと効くのは、語そのものを使わずに経路のほうを具体で書く方法でしょう。三度同じ駅で見送った、二度住所を書き損じた、そういう記述が三つ並べば、読者は自分でこの語に相当する結論を出します。読者が自分で出した結論は陳腐化しません。連載の形式ではこの手が特に効きます。回をまたいで置かれた三つの記述は、読者の記憶の中で勝手に距離を持ち、遠回りの実感が本文の分量以上に育つからです。
結局この語は、意味を伝えるためというより、時間の位置を指定するために置かれています。ここまでの積み上げを一括して回収します、という合図に近い。合図である以上、回収すべきものが実際に積んであるかどうかが唯一の条件になる。原稿を読み返すとき、この動詞に赤を入れるかどうかの判断は、語の前後ではなく、それより前の百ページを見て決めることになります。文章の良し悪しを一文の内側だけで判定できない例は他にもありますが、この語はその中でも極端です。同じ一行が、置かれる位置によって美点にも失点にもなる。校正の観点では扱いにくく、構成の観点ではむしろ便利な性質だと言えます。どこまで積んだかを測る目盛りとして、原稿の中に一つ置いておける。