橋の手前に、路面凍結注意、と書かれた黄色い板が立っています。冬のあいだじゅうそこにあって、通る人は誰も立ち止まりません。看板の言葉は事実だけを告げ、寒いかどうかについては何も言わない。凍結という語を、そこでは現象の名として使っている——温度でも感触でもなく、路面という物が置かれている状態の名です。同じ二字が小説の一行へ移ると、途端に温度を運びはじめます。凍りつくような沈黙、と書かれたとき、読者が受け取るのは路面の状態ではなく、誰かがそう感じたという報告のほうです。掲示板の上と地の文の中とで、同じ語が別の仕事をしている。位相という言葉が指しているのは、この種の食い違いのことです。
北海道や東北の一部で使われる「しばれる」という語は、寒さの程度を比喩なしで言い切ります。比喩を挟まないということは、その現象が生活の内側にあって、わざわざ別の何かに喩える必要がないということです。裏返せば、比喩を必要とする土地がある。この連体修飾句がどの位相の言葉なのかを考えるなら、そこから入るのが早い。
生活に密着した領域ほど語彙が細分化するというのは、言語をめぐる一般的な観察です。雪や氷が日常の変数である土地では、寒さは段階として語られ、段階のそれぞれに固有の名前がつく。降り方、積もり方、解け方にもそれぞれ言い方がある。そういう体系の内側にいる話者にとって、寒さを凍結に喩える理由はありません。凍結は喩えではなく、目の前にある現象そのものだからです。喩えが要るのは、対象が手元にないときだけ。この修飾句が自然に響くのは、凍結が非日常であり、しかし想像はできる場所——おおよそ都市の書き言葉の位相においてでしょう。
土地の語彙は、その土地でつねに使われているわけでもありません。同じ話者が、家では生活語を、窓口では共通語を選ぶ。切り替えは考える前に済んでいて、どちらが本当の自分の語彙かという問いは、当人の中には立ちません。二つの層を持ったまま暮らすほうが常態です。ここで気づくのは、この連体修飾句が、そのどちらの層にも属していないことです。家の中でこう言う人はいないし、窓口でも言わない。声に出して使われる場面がほとんど想定できないのに、書かれた文章の中でだけは安定して流通している。話し言葉の位相図に座席を持たず、書き言葉の位相図にしか座席のない語というものが、日本語にはかなりの数あります。翻訳文と近代小説を通って定着した長い修飾句は、たいていこの区画に住んでいます。
専門語との断層も見ておきます。気象を扱う記述にこの言い方は現れません。使われるのは、氷点下何度、放射冷却、着氷といった語です。数値と機構で書く体系と、身体感覚に預ける体系。同じ現象について二つの記述系が並行して存在していて、両者は互いを翻訳しない。零下十五度という表示は寒さの程度を確定させるが、寒さそのものは運ばない。この修飾句は逆で、程度を確定させないかわりに、読み手の身体の側へ着地する。小説の地の文で気温の数値を出すと急に事務的になるのは、記述系がそこで切り替わるからです。切り替え自体を効果として使うこともできますが、無自覚にやると場面が冷える。
ここで一度立ち止まります。では雪国育ちの登場人物にこの句を言わせるのは誤りなのか。そう単純ではありません。地の文で使うのと台詞で使うのとでは、位相の持ち主が違うからです。地の文はふつう語り手の語彙であり、語り手は必ずしも人物と同じ土地の人ではない。三人称の語りなら、語り手が都市の書き言葉の側にいることは何の矛盾でもない。齟齬が生じるのは、一人称の語りで、語り手自身が凍結を日常とする土地の人物である場合に限られます。そしてこの齟齬は、読者にはうまく言語化できない違和感としてしか現れない。位相のずれは、誤りとしてではなく、人物の輪郭のぼやけとして表面化します。
もう一つ、この句が最も多く使われるのは寒さの描写ではないかもしれない、という感触もあります。経験的には、視線や沈黙や声にかかる用例のほうが目につく。だとすればこの修飾句は、気温の語彙からすでに半分離れて、対人関係の語彙の側へ移りかけていることになる。位相差は土地と土地のあいだだけでなく、一つの句の内部でも起きているわけです。使う前に決めておくべきことは、結局ひとつに絞られる。この寒さを言っているのは誰なのか。語り手か、人物か。