原稿を通して読み直していて、同じ様態の副詞句が三十枚のあいだに二度出てきたとします。二度目を見つけた瞬間、一度目の効き目まで薄まったように感じる。単なる重複語の指摘とは、気持ちの動き方が少し違う。この感覚は気のせいではなく、この種の修飾句が場面の中で何をしているかを考えると、理屈がつきます。
様態を表す修飾句は、動詞の意味を限定するために置かれます。「立ち止まった」に付ければ、止まり方に速度と持続が加わる。急に止まり、そのまま動かない。ここまでは確かに働いている。問題は、動詞のほうがすでに停止を意味している場合です。「動きを止めた」に付けると、加わるものがほとんどない。同じ内容を二度言っているだけになり、文は長くなるのに情報は増えない。判定は単純で、削ってみて、失われたものを一語で名指しできるかどうか。速度、持続、不随意性、そのどれかが名指しできれば残す。できなければ削る。この検査は機械的にやれるので、推敲の一巡目で片づきます。
削らないと決めたあとに、かたちの選択が残ります。「凍りつくように立ち止まった」と「凍りついたように立ち止まった」は、どちらも通じるのに指しているものが違う。辞書形を立てる側は変化がいままさに進む過程を比況の基準に置き、タ形を立てる側はすでに変化を終えた状態を基準に置きます。停止の瞬間を書くなら前者、停止したまま持続している時間を書くなら後者。取り違えると場面の時間の向きがわずかに狂い、瞬間を書いたつもりの文が、人物はもう前から止まっていたという像を読者へ渡してしまう。活用形をひとつ動かすだけで、比況の参照する時点が移る。凍結という変化を意味に抱えた動詞は、その完了と未完了の差が形の上に出るぶん、この取り違えが起こりやすい。
もう一つ、この句には読者の側の時計を止める働きがあります。だから一場面に二度置くと、二度目は止まらない。すでに止まっているものが、もう一度止まることはないからです。同じ理由で、緊迫の続く長い場面では、この句を最も強い一点のために取っておいたほうがいい。どこに置くかを先に決めて、そこ以外では停止を別の手段で書く。決めるのは書き出す前がよく、書きながらだと、その場その場で最も強い言い方を選んでしまい、結果として全部が最強になります。
別の手段はいくつもあります。動作を途中で切る——伸ばした手が、目的地の手前で行き場を失う。生理を書く——吸いかけた息が、吐かれないまま残る。周囲を書く——それまで聞こえていなかった時計の音が、急に聞こえはじめる。他人の反応を書く——向かいの人物が、こちらを見て言葉を継ぐのをやめる。いずれも停止そのものを書かずに、停止によって現れたものを書く方向です。人物の内面へ立ち入らずに済むぶん、視点の制約も受けにくい。三人称の外側からの語りでも使えます。
とはいえ、迂回が常に上等というわけでもありません。慣用的な言い方には速度がある。読者が引っかからずに通過できるので、場面の谷として機能する。すべてを工夫すると、すべてが同じ強度になり、山も谷もなくなってしまう。工夫の総量が多い原稿ほど平坦に読めるという逆説は、たぶんここから来ている。だから選択の順序は、表現をどうするかではなく、この場面が山なのか谷なのかを先に決めることのほうにある。谷だと決めたなら、手垢のついた言い方をそのまま置いてかまわない。手垢が問題になるのは、山に置いたときだけです。