飲み会の帰り道で、誰かの人柄を評してこの語形を口にする人はまずいません。同じ内容を言うなら「優しそうな人だったね」になる。にもかかわらず、小説の地の文でこの語形に出会うと、誰も違和感を持ちません。意味はほぼ重なっているのに、住んでいる場所が違う。同じ言語の中に、書くときにだけ現れて話すときには現れない語形が確かにあって、この接尾辞はその代表的な一つです。書き言葉と話し言葉の差は、文の長さや語彙の難しさだけではなく、こうした小さな部品の分布としても現れます。
まず文法の側から見ておきます。形容詞や形容動詞の語幹に付いて、悲しげ、不安げ、得意げ、自慢げ、と外から観察された兆候を作る接尾辞で、古くは名詞の「気」に由来するという説明がなされます。似た働きの「そう」と比べると、制限が厳しい。付ける相手の語が限られ、主語は三人称に強く偏り、自分について述べる文はまず作れません。自分の内側は観察の対象ではないからです。この接尾辞は、話者が対象の外側に立っていることを、意味の上ではなく人称の制限として要求している。制限が厳しいということは、使えたときに運ぶ情報が多いということでもあります。
位相差という言い方があります。同じ内容を指す複数の語形が、文体や場面や話者の属性によって棲み分ける現象のことです。この接尾辞は、話し言葉から退いて書き言葉に残った側に属します。翻訳文、地の文の人物描写、抒情の濃い文章。金水敏が役割語と呼んだ、老博士の「じゃ」やお嬢様の「ですわ」のような、実在の話者ではなく虚構の人物像に結びついた語形も、位相差の一種です。この接尾辞は特定のキャラクターには結びつきませんが、文章の種類には強く結びついている。読者はこの一語を見た瞬間、意味を処理するより先に「これは書かれた文章だ」という枠を受け取ります。
専門の記述からも、この語形は締め出されています。心理学や医学が表情を記録するとき使われるのは、筋肉の動きや口角の位置といった観察可能な指標であって、この種の推量を含む語ではありません。推量が混ざると、記録なのか解釈なのかが区別できなくなるからです。日常語と専門語の断層は、多くの場合こうした点に走っています。専門語が拒むものを日常語が引き受け、日常語が持て余す精度を専門語が引き受ける。どちらが正確かという競争ではなく、担当範囲の分割です。そしてこの語形が専門記述から拒まれる理由そのものが、この語形の機能を正確に言い当てています。判断が済んでいないことを、判断が済んでいないまま書ける。
だから地の文で使うと、その一語だけで構図が立ち上がります。誰かが誰かを見ていて、まだ判断がついていない。視点の所在を、描写のふりをしながら示せる——これは他の語形にはあまりない働きです。裏を返せば、視点人物を置かない全知の語りでこれを連ねると、語り手が突然人格を持ち、確信のない観察者として振る舞い始める。書き言葉にしか住まない語形は、書き言葉の中では自由に見えますが、それが持ち込む視点の設定からは逃れられません。使うか使わないかは文体の好みですが、使った以上、誰かがそこに立っていることになります。