どうも

【どうも】感動詞

使い分けの視点

率直な礼には「感謝します」「ありがたい」、改まった立場には「恐縮です」「痛み入ります」「おそれいります」が合います。「助かります」は援助の実益、「お世話になります」は継続する関係を示します。「サンキュー」「あんがとさん」「感謝感激」は人物の軽さや時代感が強いため、場面と声に合わせます。

同義語

同品詞の類義語

感謝します
ありがたい
恐縮です文芸的
サンキューcolloquial

類義句

同品詞の慣用的言い換え

お世話になります
痛み入ります文芸的
助かります

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

おそれいります文芸的
あんがとさんcolloquial
感謝感激colloquial

関連語を探す

語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

すみませんエッセイ関連

例文: 「すみません」と扉の前で頭を下げた衛兵は、謝罪ではなく夜道の案内を頼みに来ていた。

挨拶エッセイ関連

例文: 毎朝同じ挨拶を交わしていた門番だけが、旅人に化けた王子の声を聞き分けた。

意味の空いた器——場面から借りてくる三拍

宅配便を受け取るとき、廊下ですれ違うとき、書類の不備を詫びるとき——同じ三拍が口から出ます。感謝と挨拶と謝罪という、本来なら混同すると困るはずの三つの場面で、まったく同じ音が使われ、それでも聞き手は取り違えません。この事実を素直に眺めると、意味というものが語の内側に入っていない例を見ている気がしてきます。少なくとも、辞書的な語義が働き方を決めているようには見えません。

最初に思いつく説明は省略です。ありがとう、すみません、こんにちは——後ろに来るはずの本体が落ち、前に置かれた修飾語だけが残って、落ちた部分の意味を吸い上げました。日本語でこの種の移譲は珍しくありません。断りの「結構です」も、褒め言葉だったものが後続を失って別の働きに落ち着いた例として説明されることがあります。修飾する側が修飾される側の位置を乗っ取る現象は、繰り返し起きています。

しかしこの説明では片づかない用法が残ります。「どうも様子が変だ」「どうもうまくいかない」といった言い方には、感謝も謝罪も影を落としていません。そしてこの用法のほうが、語の骨格を露出させています。不定を表す「どう」に、全称や譲歩を作る「も」が付いた形です。「どうしても届かない」と同じ組み立てで、あらゆる手を尽くしても、という含みがまず立ちます。原因を特定しようとして特定しきれない、その手前の状態を名指しているのです。この骨格から見ると、感謝の側も違って見えてきます。どんな言い方を選んでも言い尽くせないが、という前置きが圧縮されて残ったのだとすれば、二つの用法は一本の線でつながります。

共起の癖を見ておくと、傾き方がもう少しはっきりします。日本語には、後ろに来る文末の型をあらかじめ予告する副詞の一群があります。「決して」は否定を、「たぶん」は推量を、「まるで」は比況を呼び寄せる。陳述副詞などと呼ばれてきた仕組みです。この語も同じ一群に属していますが、要求する型が一つに定まりません。否定とも、推量とも、話者にとって望ましくない評価とも組める。そのくせ、確信の持てる肯定を裸で後ろに置くと据わりが悪くなります。「どうも順調だ」は落ち着かず、「どうも順調らしい」と推量を一枚挟めば通る。呼び寄せているのは特定の文末形ではなく、断定を避ける構えそのものだ、と言い直したほうが実態に合います。

同じ「どう」から出た副詞を横に並べると、分担が見えてきます。「どうやら」は推量の方向に固まり、「どうにも」は否定と強く結ばれ、「どうにか」は達成のほうへ傾く。二番目の要素——「やら」「にも」「にか」——がそれぞれ行き先を指定していて、そのぶん守備範囲が狭い。この語に付いているのは「も」だけです。全称と譲歩を作るだけで、方向を与えない。だから兄弟のうちこの一語だけが、否定にも推量にも評価にも開いたまま残りました。三拍のうち二拍までが不定の「どう」で、残る一拍が方向を持たない「も」。この配分がそのまま、語の性格の配分になっています。行き先の定まった兄弟たちのほうは、単独では放り出せません。玄関先で「どうやら」とだけ言っても挨拶にならないのは、その一語が推量の文末を待つ構えのまま宙に浮いてしまうからです。助詞ひとつぶんの差が、担える場面の広さを丸ごと決めています。

ここで自分の説明を疑っておきます。統一的に説明できたことは、そのまま正しさの保証にはなりません。玄関先でこの語を口にしている人が「あらゆる手を尽くしても」を意識しているとは考えにくいですし、意識されない語源が現在の働きを支配しているとも限りません。現代の用法では、この語はむしろ意味の焦点を持たず、後ろに来る述語の情動を一段上げる目盛りのように振る舞っています。そう言い直したくなるのですが、それも通りません。単独で置かれた一語だけで挨拶として通じるのだから、増幅装置とは言えない。増幅すべき本体がないのに、意味が立っています。

残るのは、意味が語ではなく場面に貼りついているという見方です。玄関先の一語と、廊下ですれ違いざまの一語と、失敗を詫びる一語は、音として完全に同一で、伝わる内容は別物になります。差を作っているのは前後の描写のほうです。つまりこの語は、単独で置かれた瞬間に場面の側へ意味を取りに行きます。会話文にこれを裸で落とすと、直前の地の文が意味を決定する仕事を負わされます。逆に言えば、場面が書けていない原稿では、読者はこの一語を読めずに立ち止まります。短いぶん、ごまかしが効かない試薬になります。

文: hakadoru.ai 編集部

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