とある

【とある】連体詞

使い分けの視点

単に不定なら「ある」「一つの」、身元を意図的に伏せるなら「さる」「とある」が向きます。「名も知らぬ」「見知らぬ」は語り手自身の未知を示し、「言わば名もなき」は対象の無名性を強めます。不明なのか、知っていて明かさないのかを区別し、伏せた情報を後で回収できる場面に使います。

同義語

同品詞の類義語

ある
さる文芸的
一つの

類義句

同品詞の慣用的言い換え

名も知らぬ文芸的
見知らぬ
ふとした

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

ふとしたある
他ならぬさる文芸的
言わば名もなき文芸的

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語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

伏せるエッセイ関連

例文: 証人は恩人の名だけを伏せる代わりに、事件の時刻と場所を正確に語った。

前提エッセイ関連

例文: 秘密の通路があるという前提だけが独り歩きし、誰も実物を確かめないまま捜索隊が組まれた。

伏せていると告げる不定——存在だけが通過するとき

不定と特定は、同時に成り立つのか。論理学の存在量化は、条件を満たす対象が少なくとも一つあるとしか言いません。それが誰なのかは指定しないし、話し手が知っているかどうかも問いません。ところが日常の言い方はもう少し細かい。「ある男から手紙が来た」と言う人は、たいてい差出人を知っています。知っていて言わない。この「知っているが伏せる」という層は、論理式のどこにも書き込めない。書き込む必要がなかったのは、論理が話し手の事情を扱わないからです。真であるかどうかだけを問う体系では、誰が何を承知しているかは記述の対象になりません。

そこで問題の連体詞が出てきます。「とある事情で欠席した」。この言い方には、伏せている旨の注記が付いてくる——中身は言わない、しかし確かに存在する、という二重の合図です。ただし、ここは慎重に見る必要がある。注記が付くのはこの語だけの特権ではありません。「ある事情で」と言っても、文脈次第で同じ含みは出ます。差は論理の層にあるのではなく、伏せていることをどれだけ表に出すかという明示の度合いにある。強いて言えば、この語は伏せていることを隠さないぶん、聞き手に踏み込ませない圧を持ちます。開示を拒む姿勢まで含めて言葉になっている、と言い換えてもいい。

否定との関係を見ると、もう一つ性質が浮かびます。「とある事情で欠席した」を否定して「欠席していない」と言っても、事情の存在そのものは消えません。存在は否定のスコープの外に置かれ、前提として据えられている。争点になる部分と、ならない部分が、一文の中で分かれているわけです。争点にならないところに置かれた情報は、検証もされない。便利であると同時に、危うい仕組みです。中身を一度も問われないまま、存在だけが通過していく。読者は「何かがあった」と受け取り、その何かを自分で埋め始めます。埋めた内容が読者ごとに違っていても、文はどれとも矛盾しません。

近年は、作品の題にこの語を冠する例が目につくようになりました。不定の印が、世界の入口の看板として使われている。奇妙なのは、不特定であると宣言したほうが、その一つが特別に見えてくる点です。理由はおそらく集合の側にある。「その中のひとつ」と言われた時点で、聞き手はほかにも無数にあるらしいと察する。指し示された対象の格ではなく、背後に想定された集合の大きさが、そのまま物語世界の広さの見積もりになっている。存在量化は本来、対象の個数を最小限しか約束しない形式ですが、日常の運用ではその逆に働くことがある。

冒頭に置けば、読者との間に契約が結ばれます。まだ明かさない、いずれ明かす、という約束です。約束である以上、回収を要求される。回収されないまま終わった場合、読者はそれを伏せた語ではなく、決めていなかった語として読み返します。前提として据えたものは争点にならない代わりに、最後まで一度も争点にならなければ、据えた事実そのものが露見する。

文: hakadoru.ai 編集部

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