自分の原稿を全文検索してみると、接続詞の偏りは思いのほか露骨に出ます。「しかし」は地の文に散らばり、「だから」は会話に寄ります。中でも挙動が変わっているのが「それにしても」で、経験的には会話文と内心描写に集中し、しかもしばしば発話の冒頭、ときには会話そのものの冒頭に現れます。「それにしても暑いね」は、直前に何の発言がなくても成立します。接続詞のはずなのに、接続すべき先行文がテクストの中に見当たらないのです。
この振る舞いは、コーパスを扱う立場からは示唆的です。通常の接続詞は直前のテクストを受けます。ところがこの語が受けているのは、多くの場合、文章の外側——その場の状況や、話し手が内心で続けてきた思考です。文字化された部分だけを見ると照応先が欠けて見えます。つまり、書かれたテクストが氷山の一角にすぎないことを、この語の出現位置そのものが教えてくれるわけです。品詞分類の議論で、この種の語を純粋な接続詞と見るか副詞に近いものと見るかが揺れるのも、同じ事情によると考えられます。
長さの面から見ても、この語は目立ちます。そ・れ・に・し・て・も と数えれば六拍。三拍の「しかし」、三拍の「だから」、二拍の「でも」と並べると、日常の会話でよく使う接続語としてはかなり長い部類に入ります。語の頻度が高いほど語形は短く摩耗していく、という傾向は計量言語学で古くから指摘されてきたもので、その物差しを当てると、六拍のまま口語に居座っているこの語は例外に見える。摩耗しないのは、この語が運んでいるものが接続ではないからでしょう。前の話題との論理関係を示すだけなら短縮の圧力がかかりますが、話し手の構え——いったん受け止めた上で別のことを言い出す構え——を丸ごと引き受ける語は、短くすると芯まで削れてしまいます。長い接続語が摩耗を免れているとき、理由はたいてい意味ではなく態度の側にあります。
もっとも、話し言葉には短縮形も現れます。「にしても暑いね」「にしても本当に遅いな」のように、頭のほうから欠けていく形です。ここで落ちるのは指示語の部分で、残るのは譲歩を作る形式のほうだという点が興味深い。照応先を指し示すはずの「それ」が真っ先に削られるのは、その部分が最初から仕事をしていなかったからだ、と読むことができます。削られても意味が変わらない部品は、削られる前から機能していなかった。末尾の「も」のほうは落とせません。譲歩の芯がそこにあるからです。コーパスの中で語形の揺れを拾うことは、どの部分が本当に働いているかを外側から検算する作業でもあるわけです。
後続の共起にも癖があります。この語のあとに来るのは、感覚的には評価と感嘆の述語が目立って多く、「暑い」「よくやる」「遅い」「妙だ」といった、事実の報告ではなく事実への査定が並びます。n-gram 風に言えば、直後に評価的な形容詞や形容動詞が続きやすい語ということになります。前の話題をいったん認めた上で、語末の「しても」はまさに譲歩の形ですが、話題の枠の外にある感想を差し込みます。譲歩と詠嘆が一語に折り畳まれているため、後続は自然と詠嘆の側へ偏ります。偏りが分かっていれば、直後に無味乾燥な事実だけを置いて肩透かしを作ることもできます。
頻度の順位表を眺める手もあります。ただし順位表の顔ぶれは、話し言葉のコーパスと書き言葉のコーパスとで大きく入れ替わります。新聞の社説で上位に来る接続語と、雑談の文字起こしで上位に来る接続語は、あまり重なりません。この語が後者の側の住人であることは、独り言や雑談の場面を思い浮かべれば納得がいくはずです。小説はこの二つの世界を一冊の中に同居させる形式なので、台詞と地の文で接続語の顔ぶれを意識的に分けるだけでも、文体の解像度は一段上がります。
書き手にできる実務は、自分の原稿を自分でコーパスとして扱うことです。この語を検索して、ヒットが特定の人物の台詞に集中しているなら、それはもうその人物の口癖として機能しています。意図してそうしたのなら設計どおり、無意識なら、登場人物の全員が同じ癖を共有する事故の始まりです。頻度を数えるだけなら特別な道具は要りません。検索窓に一語入れて、件数と出現場所を眺める。そして数えてみて初めて、自分がこの語に頼っていた回数に驚くことになります。原稿とは、書いた本人にとってこそ未知のコーパスです。