「返事くらいはくれるだろうと思っていた。それどころか、向こうから会いに来た。」この二文のあいだで、読み手の頭の中では小さな計算が走っています。最初の文が期待の下限を設定し、次の文がその下限ごと目盛りを作り直します。単に返事が来たのなら期待どおり、返事すら来なかったのなら期待外れですが、この語が導くのは第三の事態——設定した物差しそのものが間違っていた、という宣言です。
論理学の否定は二値です。「Pでない」と言えばPの補集合を指すだけで、方向を持ちません。ところが自然言語の否定には向きがあります。「彼は貧しくない。それどころか、資産家だ」と言うとき、前半の否定は「貧しい」の単なる打ち消しではなく、「貧しいかどうかを問うこと自体が的外れだった」という、問いの立て方への異議として働きます。言語学でメタ言語否定と呼ばれる現象に近い構図です。命題の真偽ではなく、その命題を口にした前提のほうが斬られています。
興味深いのは、この語に二つの用法があることです。一つは極性の反転で、「助けてくれなかった。それどころか邪魔をした」がその型にあたります。もう一つは同方向への飛躍で、「雨が降った。それどころか雷まで鳴り出した」がそれです。反転と増幅、正反対に見える二つが同じ語で言えるのは、共通の核があるからだと考えられます。すなわち「直前に置いた想定は、事態の規模を測るのにまだ甘すぎた」という表明です。向きはどちらでもよく、目盛りの振り直しこそが本体である。
似た働きに見える「むしろ」と比べると、輪郭がさらにはっきりします。「彼は怒らなかった。むしろ笑っていた」の「むしろ」は、二つの候補を天秤にかけて、より適切な記述のほうを選び直す語です。訂正の対象はあくまで記述の選択であって、尺度の設定そのものは動かしません。一方、この語は天秤ごと作り替えます。候補Aか候補Bかではなく、AもBも載っていた目盛り自体が実態に届いていなかったと告げるのです。一方は訂正の演算子、もう一方は再測定の演算子です。形式的に書き分けるなら、それくらい違う仕事をしています。
もう一つの論理的性格は、必ず受ける相手を必要とすることです。前提となる想定が直前に明示されているか、少なくとも文脈から復元できなければ使えません。会話の口火を切る位置には置けず、何の脈絡もなく切り出されれば聞き手は照応先を見つけられません。つまりこの語は状況ではなく言明に働く演算子であって、否定しているのは世界の側の事態ではなく、直前に立てられた命題の測り方です。同じ「それ」を含んでいても、その場の状況だけを受けて話を始められる転換の語とは、論理的な型がまるで違います。
小説でこの語が効くのは、読者の基準点を作中人物と一緒にずらせるからです。語り手が期待を述べ、それどころか、と続けた瞬間、読者は自分の予測もろとも裏切られます。ただし乱用すれば、常に想定が外れる語り手は単に見通しの悪い人物に見えてきます。ここぞという一箇所で物差しを折るために、それ以外の場面では物差しを静かに保ちます。否定の論理は、使わない場面の設計まで含めての論理です。