発音してみると、舌は同じ往復を二度繰り返しています。奥での破裂、前への弾き。カ行の子音は口の奥で息をせき止めてから一気に解放する無声の破裂音で、ラ行の子音は舌先が歯茎を一度だけ軽く叩く弾き音です。硬い立ち上がりと、軽い受け流し。この二拍の運動がもう一度繰り返される四拍の構造こそ、この語の輝きの正体だと考えられます。光が一度きりで終わらず、粒として明滅し続ける——反復という形式そのものが、意味の一部を担っているのです。
母音の並びにも仕掛けがあります。イは口の開きが最も狭い母音のひとつで、音象徴の研究では小ささや鋭さの印象と結びつくことが繰り返し報告されてきました。アは最も開いた母音で、明るさと広がりを担います。狭いイから開いたアへ、閉じては開くこの往復は、光の点滅と相性がいい。同じ子音の並びでも「きらり」と一回で止めれば、意味は持続から一回性へ移ります。反復形が継続や反復を表し、「り」で締める単発形が一回きりの出来事を表すという対応は、日本語のオノマトペに広く見られる、ほとんど文法と呼べる規則性です。
二拍の語基そのものにも、独立した生産力があります。きらめく、きらつく、そして華やかさを言う きらびやか。いずれも同じ二拍を先頭に抱え、動詞や形容動詞として活用の世界へ渡っていった語だとされます。オノマトペの多くは品詞の外側に置かれたままですが、この語基は擬態語の領域を出て、語彙の本体に根を下ろしたわけです。しかも派生先はどれも光に関わる意味を保っています。二拍の音の連なりが、四拍の反復形から動詞まで、一族をひととおり養っている。単発形の「きらり」の側から新しい動詞が生まれてこないことを思えば、派生の入口が二拍の語基にしかないことも見えてきます。音象徴が偶然の連想にとどまらないことの、手近な証拠だと言えます。
清濁の対立は、この語の担当範囲をさらに際立たせます。濁点を打った「ぎらぎら」は、同じ光でも粘りと圧力を帯びる。真夏の直射日光、脂の浮いた光沢、欲のこもった目つき。清音が軽さを、濁音が重さを描き分けるこの対立は日本語の音象徴の最も安定した部分で、母語話者は学習した記憶のないまま、この対立を正確に運用しています。清音側のこの語が受け持つのは、質量を感じさせない光です。水面の反射、砕けた星、瞳の中のハイライト、炭酸の泡。重さのある輝きを書きたければ、濁点を打つか、別の語に譲ることになります。
音と意味の結びつきは、日本語だけの事情ではありません。英語には glitter、gleam、glisten、glint、glow と、光にかかわる語が gl- で始まる一群を作っており、言語学ではこうした音のかたまりが意味の傾きを持つ現象として古くから指摘されてきました。もっとも、英語のこの一群を支えているのは語頭の子音連続で、日本語のこの語を支えているのは拍の反復です。同じ光を写すにも、言語ごとに手持ちの部品が違う——制約の側から語彙の形が決まっているのです。日本語には子音を二つ重ねる余地がないかわりに、拍を丸ごと繰り返すという手段があり、その手段が擬態語の体系全体を作り上げました。表記の面でも差は出ます。反復は同じ二字が並ぶので、耳で聞く前に目が明滅を受け取ってしまう。
末尾の「と」の有無も、音の問題として考えられます。「きらきら光る」と「きらきらと光る」を読み比べると、後者は一拍増えるぶん、反復と動詞のあいだにわずかな間が生まれます。この間が、光の描写をひと呼吸だけ立ち止まらせる。畳みかけたい文では「と」を落とし、描写を味わわせたい文では「と」を置く。たった一拍の増減ですが、音読すると差ははっきり分かります。オノマトペの運用は、こうした拍単位の調整まで含めて文体です。四拍のまま置くか、五拍にして間を作るか。判断はそれだけのことです。
音の分析は、そのまま使いどころの分析につながります。四拍の反復形は、文のリズムの上でかなり長い滞在時間を持ちます。短い文にこの語を置けば文全体がこの語のリズムに支配され、描写が一時停止して光だけが残る。それを狙うなら効果ですが、話を急がせたい場面では速度の妨げになります。もうひとつ、この語は視覚の快さとの結びつきが強いため、皮肉の文脈に置くと落差がよく働きます。うんざりした人物の目に映る、店内の華やいだ装飾。音の明るさが逆光のようになって、見ている人物の内側の暗さを照らし出します。