時代小説や落語の長屋にふらりと現れるのは、たいてい隠居と決まっています。若い職人は仕事に追われ、店の者は主人の目に追われ、嫁いだ娘は所帯に縛られている。目的のない外出が許されるのは、労働から降りた者だけです。つまりこの副詞は、足取りの様子を写すふりをして、その足の持ち主の身分まで指定している。誰もが何かの用で動く世界のなかで、用のない移動ができる人間は、意外なほど限られているのです。風来坊、というこの副詞と相性のよい人物名詞が、やはり浮世の勤めの外にいる者を指すのも偶然ではないでしょう。
人物像を運ぶ語というと、まず一人称や文末表現が挙がります。「わしは知っておるんじゃ」と書けば老博士が、「〜ですわよ」と書けばお嬢様が、実際にそう話す人物に会ったことがなくても立ち上がる。副詞はこうした一覧から漏れがちですが、実際には同じ仕事をしていると考えられます。この語が置かれるだけで、語りはわずかに講談や落語の口調へ寄る。同じ内容を「あてもなく」と書けば現代小説の内面描写に、「ふらっと」と書けば日常会話の軽さに変わります。三つの形は意味がほとんど重なっていて、連れてくる世界だけが違う。
こうした型は、役割語という名で研究されてきました。実際の老博士がそう話すわけではなく、読者の側にあらかじめ共有された類型の目録が、文字面と人物像を結びつけている。目録に載っているのは一人称と文末辞だと思われがちですが、副詞の欄も確かに埋まっています。同じ動作を書いても、選ばれた副詞ひとつで、読者の頭に浮かぶ人物の年齢と服装が変わる。誰も編纂した覚えのない目録が、書き手と読者のあいだで細部まで一致しているのは不思議なことです。共有されているのは現実の言語ではなく、読まれてきた言語の記憶のほうでしょう。落語も講談も時代小説も読んだことのない人が、それでもこの副詞から隠居を思い浮かべる。目録のほうが、本文より先に流通してしまっているわけです。
促音形と「り」形の分布を見ると、断層は話し言葉と書き言葉のあいだに走っていることが分かります。日常の発話で選ばれるのはまず「ふらっと」で、「り」で受ける形を口に出すと、どこか芝居がかって聞こえる。試しに「昨日ふらりと出かけてさ」と声に出してみれば、冗談めくのが確かめられるはずです。これは単独の現象ではありません。ゆらりと、ひらりと、ちらりと、ぽつりと——「り」系列のオノマトペ副詞は総じて会話に現れにくく、地の文の専用語彙に近い位置にいます。同じ語根から出た二つの形が、口と紙で棲み分けている。位相差というものは方言のように地図の上へ現れるとは限らず、こんなふうに、一枚の原稿の中の会話文と地の文のあいだにも走っているわけです。
語種の層も、断層の一本です。目的のない移動を書く語彙には、和語の言い回し、この種のオノマトペ副詞、漢語の副詞——三つの層が並んでいます。報告や記事で使われる「漫然と」は、同じ動きを指しながら、書き手の評価をひとつまみ含む。あてもなく歩いた、と書けば描写ですが、漫然と歩いていた、と書けば、責める調子がわずかに混じります。漢語の副詞は行政と学術の文書から降りてきた層にあり、そこには評価と手続きの匂いが残っている。どれを選ぶかは、動きの意味を決めるだけでなく、その動きを誰の目が見ているかを決める作業でもあります。三つのうちオノマトペ副詞だけが、評価をほとんど負わずに、足取りの形そのものを写しています。
この棲み分けは、実務ではそのまま道具になります。地の文の基調が現代的な一人称であれば、この語は一箇所だけ古風な結晶として浮く。狙って浮かせれば、語り手が一瞬だけ噺家の口調を借りたような可笑しみが出ますし、無自覚に混ぜれば文体の混濁と読まれる。また、物語の力学から見ると、この語は転換の合図として働きやすい。物語は登場人物の目的で駆動するのが基本です。誰もが何かを求めて動く紙面で、無目的の表明は例外であり、例外は事件の予告になる。ふらりと入った古書店で、ふらりと降りた無人駅で、人は物語に出会うことになっている。読者はその約束を、半ば知りながらページをめくっています。
位相の断層をまたぐとき、語は小さな音を立てます。その音が聞こえていれば、副詞ひとつで語りの時代と声色を調律できる。目的のない足取りを書くために、これほど目的をもって選ばれるべき語もありません。