路銀は尽き、頼る当てはなく、あまつさえ雨まで降り出した——時代小説や講談の語りにおいて、この接続詞はきまって不運の三つ目、駄目を押す位置に現れます。一つ目と二つ目の不幸は「〜し、〜なく」と淡々と重ねられ、最後のひと押しにだけこの語が投入される。つまり単なる添加ではなく、「まだあるのか」という聴き手の嘆息を語り手が先取りして代弁する、演出の装置として働いてきました。おまけに・そのうえが中立の足し算だとすれば、こちらは嘆きの掛け算です。
語形の来歴には、表記が深く絡んでいます。もとは「あまりさえ」で、話し言葉の中で促音化して「あまっさえ」となった。その促音を「つ」の字で書き表した表記が、のちに字面どおりに音読されて現在の形が定着した——という経緯が広く知られています。書かれた文字が発音を塗り替えた例であり、この語が耳の言葉ではなく目の言葉、すなわち書物の中で生き延びてきたことを、語形そのものが証言している。漢字では「剰え」と書きますが、この訓は常用漢字表の音訓に採られておらず、現代ではほぼ仮名書きです。
明治の言文一致以降、口語の文章では「そのうえ」「おまけに」が添加の座を占め、この語は文語文や漢文訓読調の残り香として周縁に退きました。それでも消えなかったのは、時代物・怪談・擬古文といった「語りの様式」を持つジャンルが、様式ごとこの語を保存したからです。現代の小説で地の文に一度この語を置くと、その一文だけでなく語り全体の温度が変わります。語り手が一段高い床に上がり、講釈師の声色を帯びる。ジャンルの記憶を呼び出すスイッチとして機能するわけです。
五拍という長さも、この演出に一役買っています。「おまけに」「そのうえ」の四拍より一拍だけ長く、前後に読点を従えて挿入されると、追い打ちの直前にわずかな溜めが生まれる。講釈師が張り扇を止め、一呼吸おいて客席を見渡す、あの間に相当する時間です。
会話でこの語を耳にすることは、現代ではまずありません。それでも大半の読者が意味を取れるのは、話し言葉とは別に、読書経験が維持している語彙の水路があるからです。「けだし」「よもや」「いわんや」なども同じ水路の住人で、誰も口にしないのに、紙の上では問題なく通じる。学校教育と、近代文学以来の読書の蓄積とが、この受動語彙の貯水池を支えてきました。書き手が古風な一語を起用するとき、実際に頼っているのは辞書ではなく、読者の側に堆積した読書の記憶です。通じるかどうかは、想定する読者層がどんな読書史を持つかの見積もりと切り離せません。
類義の「あろうことか」と並べると、輪郭がいっそうはっきりします。「あろうことか」は「あってよいはずがない」という話者の慨嘆を前面に出す語で、続く事態への道義的な驚きが主役です。対してこちらは、列挙の末尾に追い打ちを据えるという構文上の位置が主役で、話者の感情は語りの調子の側に溶けている。憤りを叫ぶ台詞なら前者、災厄を数え上げる地の文なら後者と、自然に置き場所が分かれます。
実務的な注意はふたつ。第一に、この語は悪い事態の追い打ちに強く偏っており、「昇進し、あまつさえ良縁にも恵まれた」のような吉事の列挙に使うと、読者はかすかな違和感を覚えます。意図的な諧謔として使うなら、その違和感ごと効果になる。第二に、一作品で使うのは一、二度が限度でしょう。様式のスイッチは、押すたびに効き目が薄れる。ここぞという不運の頂点まで取っておいてこそ、書物の中で磨かれてきた古い文語は、現代の紙面でも香ります。