地形図の等高線は、同じ標高の点を結んだ線です。線と線の間隔が狭いところほど、短い水平距離で高さが変わる。登山地図を見慣れた人は、間隔の詰まった部分を目にしただけで、そこで足に来る負荷を予想できます。図の上で読み取られているのは高さそのものではなく、高さの変化率——単位水平距離あたりどれだけ上がるか、つまり勾配です。標高三千メートルの山にもなだらかな斜面はあり、標高数百メートルの崖はほとんど垂直に立つ。高さと勾配は独立した量で、この形容詞が拾っているのは後者のほうだけだと分かります。
勾配は局所的な量である。ある一点での傾きは、その点のごく近くの地形だけで決まり、山全体の規模とは関係しません。少し不思議に思えるのはここで、道の全長が何キロあろうと、いま踏み出す一歩のきつさには寄与しない。逆に総距離が短くても、勾配が大きければ一歩ごとの負荷は大きい。人が疲労として感じ取るのは局所量のほうで、全体量はあとから合計として意識される。「先は長い」と「この坂はきつい」は、似た嘆きに聞こえて、別々の量についての報告です。
局所量であるということは、操作できるということでもあります。登山道がつづら折りを描くのは、標高差を変えずに勾配だけを下げるためです。斜面を斜めに横切れば、同じ高さを稼ぐのに長い距離を使う。上がる高さは同じで、進む距離が増えるのだから、比としての傾きは小さくなる。距離を差し出して傾きを買っている、と言い換えてもいい。険しさは地形に固有の値ではなく、どう経路を引くかで変わる量です。直登すれば険しく、折り返せば険しくない。同じ山肌を指して両方が言える以上、この形容詞が報告しているのは対象の属性そのものではなく、対象と通り方の組み合わせのほうだということになります。同じ理屈は階段にも埋まっています。建築の基準が蹴上げと踏面の寸法に枠を設けているのは、傾きの上限を人が安全に扱える範囲へ収めるためです。段の高さを下げれば、同じ階高に届くまでに要する段数は増える。距離と傾きの交換は、山道でも階段でも同じ形で現れます。傾きを下げる手立ては、結局のところ通る距離を長くすることしかありません。
傾きは道の途中で一定でもありません。取り付きが緩く上部で急になる斜面と、最初がきつくて上へ行くほど寝ていく斜面。平均をとれば同じでも、歩いた感触はまるで違います。数学ではこの差を、傾きがどちらへ変化していくか——上に凸か下に凸か——として区別します。前者は登るほど苦しくなり、後者は登るほど楽になる。総量が同じでも配分が違えば別の経験になるという話で、物語の困難の置き方とそのまま重なる。終盤で急になる構成と、序盤で急になる構成では、読者が最後に受け取る印象が変わります。効いているのは費やした苦労の合計ではなく、傾きが増えていたか減っていたかのほうです。
では顔つきに使われるとき、何が勾配に当たるのか。ここで説明が止まります。眉と眉のあいだに寄る皺、下がった口角——凹凸の話に見えますが、それは形の記述であって変化率ではない。強引に対応づけるなら、表情の各部が中立からどれだけ急に離れているか、という読み方はできる。ただしそう言い切ると、比喩を語源の側から一方的に説明したことになって、実際の使われ方から離れます。転用を支えているのは幾何の対応ではなく、通行可能性のほうではないか。険しい斜面は登れない。険しい顔には話しかけられない。どちらも進入のコストが高いという一点で揃います。
とはいえ、その説明にも穴がある。通行可能性で揃うのなら、壁にたとえる表現と区別がつかなくなる。壁は傾きが極端で、通れないことが確定している。この形容詞が指すのは、そこまでの断絶ではありません。通れないのではなく、通るのに代償が要る。有限だが大きい傾き、という位置づけです。だから険しい道は登り切れるし、険しい表情はほぐれることがある。無限と有限の差が、そのまま語の使い分けとして残っている。断絶を書きたいなら別の語を選ぶべきで、この語を選んだ時点で、越えられる可能性は文の中に残ります。
物語の困難を書くときに使える区別も、たぶんここに尽きます。読者が緊張を感じるのは総量ではなく、いま人物が踏んでいる一歩の傾きのほう。「あと十年かかる」と書いても体感は動きませんが、「次の一歩で足場が崩れる」と書けば動く。全体量は設計図の側に置いておけばよく、本文に出すべきは局所量です。険しさは足元にしかない。