遠ざかる

【とおざかる】動詞

使い分けの視点

「離れる」は位置、「薄れていく」は知覚、「距離を置く」は意志を示します。「遠ざかる」は残る側へ視点を固定し、像や音が連続的に小さくなる過程を描けるため、別れのカメラ位置から選びます。

同義語

同品詞の類義語

離れる
退く文芸的
薄れていく

類義句

同品詞の慣用的言い換え

距離を置く
姿を消す文芸的

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

引き波のような文芸的
夜が明けるような文芸的
朝霧のように文芸的

副詞的言い換え

情態副詞・形容詞の副詞的変換

次第に
ゆっくりと
影を薄くして文芸的

体言的言い換え

用言を体言に変換

離反文芸的
隔たり

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

姿を消す文芸的
影が薄くなる文芸的
疎遠になる

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語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

減衰する別れエッセイ関連

例文: 尾灯が減衰する別れを、少女は踏切が開いても見送った。

残された者の動詞——駅のホームと近代文学

発車した列車をホームで見送ると、車体は速度を上げながら一定の率で小さくなり、やがて一つの点になって消えます。この、連続的に縮んでいく像を最後まで見届けるという経験は、実はかなり新しいものです。徒歩の時代の別れでは、去る人は道の曲がり角や坂の向こうで、ふいに視界から切れた。峠の松の陰に入ればそれきりで、別離は「切断」であって「減衰」ではなかった。直線の線路と一定の速度がその感覚を変えたのであり、「遠ざかる」という動詞が近代の小説で存在感を増していくのは、この視覚経験の変化と無関係ではないと考えられます。

近代文学と乗り物の縁は深い。夏目漱石の『三四郎』は、主人公が九州から東京へ向かう汽車の中から始まりますし、川端康成の『雪国』の冒頭も汽車です。上京の物語では故郷が背後で遠ざかるものとして書かれ、帰郷の物語では都会がそうなる。船の別れも同じ構造を持っていて、岸壁と甲板を結んだ紙テープが切れる瞬間を境に、船体はゆっくりと減衰の運動に入ります。重要なのは、この動詞が去る側と残る側のどちらの視点でも書けるという点です。窓の外を流れていく景色を見る者と、ホームや岸壁に立ち尽くして点になる乗り物を見送る者とでは、同じ物理現象がまったく別の感情を運ぶ。近代の小説は、その両方の席を手に入れました。

文語の「遠ざかりゆく」という形は、口語の時代になっても詩や歌詞の位相に残りました。「ゆく」が付くだけで、動きに引き延ばされた余韻が生まれる。口語の「遠ざかっていく」は同じ内容をやや散文的に均し、単独の終止形はもっとも乾いた切り取りになります。「船影は遠ざかりゆく」「船が遠ざかっていく」「船が遠ざかる」——並べてみると、意味はほぼ同じなのに、一つ目は詠嘆、二つ目は描写、三つ目は報告に近い。語形の選択がそのまま文体の温度の選択になる、その落差の大きさでは指折りの動詞です。

視覚だけの語でもありません。足音が、汽笛が、話し声が遠ざかる。音の減衰は距離の知覚と直結していて、目を閉じていても分かる遠ざかりです。ラジオや映画が使うフェードアウトという技法は、この聴覚経験の機械による翻訳だと言えます。そしてここからさらに一歩進んで、「意識が遠ざかる」という慣用が生まれました。気を失う体験を、音が小さくなっていく感覚に写した表現で、自分が倒れるのではなく外界のほうが自分から引いていくという、逆転の構図を持っています。人が倒れる場面を書くとき、世界の側を動かすこの構図は今でも十分に有効です。

この動詞の本質は、視点を静止させることにあります。動くのは常に相手で、書き手のカメラは残される側に据えられる。だから、去る者の背中を書けば未練が、去られる者の耳を書けば喪失が、説明なしで文に染み込みます。テールランプが闇に溶けるまで路上に立っている人物は、心情を一行も語らなくても、読者にはすべて伝わってしまう。誰を動かし、誰を立ち止まらせるか——別れの場面の設計は、実はこの一点の配分で大半が決まる。

文: hakadoru.ai 編集部

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