この動詞の直前に何が来るかを集めていくと、分布はかなり偏ります。多いのはト格で、次いでデ格、そのあとにカラ格が続く。ト格が担うのは相互性です。「AとBが別れる」は、Aが一方的に何かをしたのではなく、二人が同時に一つの事態に入ったことを表す。だからト格を取る動詞の一群——結婚する、似る、衝突する——と同じ棚に並びます。ところがデ格が入った途端、性質が変わる。「駅で別れる」は相互的な出来事ですが、そこには終わりの含みがありません。同じ動詞が、隣に立つ助詞ひとつで、日常の解散と関係の終了に分岐します。
言語を数える立場では、こうした隣接をn-gramとして扱います。連続するn個の単位の並びを数え上げる、それだけの素朴な方法ですが、これで語のふるまいはかなり見える。ト格の名詞が人を指すか場所を指すかで読みが割れること、「きれいに」「あっさり」のような様態の副詞が付くのは関係解消の読みに偏ること、「二手に」「左右に」が付けば人ではなく道や隊列の話になること。意味の分類を先に立てなくても、隣の語を数えるだけで用法の地図が描けてしまう。逆にいえば、書き手が意味だと思って選んでいるものの相当部分は、隣接の慣習として先に決まっています。
左隣ばかり見てきましたが、右隣にも偏りがあります。この動詞のあとに続く要素が、再会の可能性まで書き換えてしまうのです。別れてから、なら時間の起点になるだけですが、別れたきり、と書けば、以後に接触がなかったことが含意されます。きりは、その動作を最後として続きがないことを示す助詞で、二拍を足すだけで関係の現在まで決めてしまう。別れたあと、との差はわずかに見えて、読者が受け取る情報の量が違います。左隣が事態の種類を決め、右隣が事態の射程を決めている。前後の両方から挟まれて、はじめて意味の確定する語なのです。窓を左に二語しか取らずに数えれば、この右側の情報はまるごと落ちる。窓の幅と向きは、集計を始める前に決めておかなければならない設定です。
時制の分布にも癖があります。この動詞は過去形で現れることが多く、現在形に置くと予定や規則の読みへ寄る。ここで別れる、と書けばこれから起きることの予告になり、習慣を述べる文脈なら毎回そうしているという意味になります。厄介なのは進行の形で、別れている、はなかなか状態として据わりません。出来事が一瞬で終わるからです。同じくト格を取る動詞でも、似ている、なら状態として長く続けられる。この差は、書き手が時間をどう配るかに直結します。関係の終わりを持続として書きたければ、この動詞のままでは足りない。会わなくなった、連絡を返さなくなった、といった否定の継続へ移すか、周辺の名詞に肩代わりさせるかになります。頻度表を眺めているだけでは見えないのは、この種の、書けない形のほうです。
共起相手の分布も、やはり大きく偏ります。ト格に立つ相手を数え上げれば、上位のいくつかで大半が埋まり、残りは一度きりの語が長く尾を引く。この形を見ると、書き手はつい裾のほうへ手を伸ばしたくなります。頭の数語は手垢がついているのだから、誰も使っていない組み合わせを選べばいい、と。
しかしこれは早すぎる結論です。低頻度の共起は、単に珍しいだけで、良いとは限らない。頻度の低さは、その組み合わせが不自然であることの結果かもしれず、その場合、読者は新しさではなく引っかかりを受け取ります。計量の側にはこの区別のための道具があって、共起の起こりやすさを、二語がそれぞれ単独で持つ頻度の積と比べる指標が使われます。両方とも高頻度なのに一緒には出ないなら、それは避けられている組み合わせだと分かる。珍しさには、まだ誰も試していない珍しさと、試して駄目だった珍しさがある。この二つを取り違えると、独自性を狙った一行が、単なる不自然な一行になります。
手垢を落とす現実的な方法は、共起相手を珍しくすることではなく、格の構えのほうを変えることです。「彼と別れた」を「彼を置いて帰った」に替えると、相互性が消えて主体が片側に寄り、視点の位置まで動く。「別れることになった」と書けば、決めた人間が文から消える。動詞を保ったまま隣の語だけ入れ替えている限り、分布の頭のあたりを行き来しているにすぎません。文の骨組みを組み替えたときにだけ、頻度表には載っていない場所へ出られます。表に載っていないということは、まだ誰の癖にもなっていないということでもある。