旅先の市場で、売り手が品物を示す。標準語なら「この魚」、土地の話しことばなら音が縮んだり、後ろに独特の助詞が添えられたりするでしょう。指している魚は同じでも、話し手と聞き手の距離、親しさ、商いの調子までが一緒に聞こえます。指示詞は物の住所を知らせるだけの語ではない。誰の足場から世界を測るかを、発話のたびに決める小さな座標軸です。
現代標準語の「こ・そ・あ」は、単純な近・中・遠の三段階として習います。しかし実際の会話では、話し手に近い「この」、聞き手側の「その」、双方から離れた「あの」という対人関係も働きます。しかも指示詞の体系は言語や方言によって同じではありません。距離を二段階で分ける体系もあれば、目に見えるか、上手か下手かといった情報を形に含める言語もある。標準語の三系列は世界の自然な切り分けではなく、多数ある測量法の一つなのです。
方言を書くとき、語形だけを珍しくすれば土地らしさが出るわけではありません。「こっち」「こちら」「こいつ」の選択、名詞を言わず指差しだけで済ませる頻度、聞き手が知っている物を「その」と受ける作法——指示の運用全体に地域差や世代差が現れます。また、同じ人物でも役所では「この書類」、家では「これ」、腹を立てれば「この野郎」と切り替える。最後の「この」は名詞を修飾する途中の形を保ちながら、後続語を飲み込み、非難そのものとして独立しかけています。文法の余白を声の勢いが埋める例です。
標準語そのものも、無色透明なことばではありません。学校教育、放送、行政文書などを通じて広く共有され、地域を越える場面で選ばれやすくなった一つの規範です。話者が土地の形を抑えて「この」と言う場面には、通じやすさへの配慮、改まった緊張、故郷の話し方を隠したい気持ちが入りうる。逆に親しい相手の前で地域形へ戻るなら、それは発音の変化であると同時に、いま誰と同じ場所にいるかという宣言にもなります。
創作上の難所は、方言の指示詞を標準語へ一対一で置換すると、視点まで変わりうることです。土地の話者が身内の出来事を近くに置く表現を、機械的に「その」と訳せば、急によそよそしくなるかもしれない。反対に、読者への分かりやすさを優先してすべて「この」に均すと、会話の地理が平らになります。意味を保つには、対象との物理距離だけでなく、誰が情報を所有し、誰を仲間として扱う発話かを見る必要があります。
小説では、最初から濃い語形を並べるより、指示の癖を場面で覚えさせる方法があります。人物が遠い故郷を「あの町」でなく「この町」と呼ぶなら、身体は離れていても心理的には足元に置いていると伝わる。別の人物が同じ場所を「そちら」と呼べば、境界が立つ。わずか二拍の語が、土地、集団、記憶への所属を決める。短いからこそ反復しても目立ちにくく、会話の座標を静かに保てます。方言らしさは音の衣装だけでなく、世界をどこから指すかという座標の違いに宿ります。