声を張り上げた人が、あとで自分の行為をどう言うかを考えてみます。「叫んじゃった」と言う人もいるでしょうが、多くは「でかい声出した」か「怒鳴った」のほうを選ぶ気がします。それなのに小説の地の文では、この動詞が当たり前に使われる。話し言葉ではあまり出てこない語が、書き言葉では標準になっている——この断層は、格式の差だけでは説明しきれません。
一つの見方は、この動詞が外からの記述だというものです。声を張り上げている本人は、自分が声量を上げていることを行為として意識していない。意識していれば、それはもう叫びではなく発声の調整になります。つまりこの語は、観察者の位置からしか使えない。地の文が三人称なら自然に置けて、口語で自分の行為に使うとどこか他人事に響く。そう説明すると、いったんは収まります。
しかし反証はすぐに出てきます。一人称の小説でも「叫んだ」と書けますし、不自然ではありません。だとすると外からの視点という説明は足りない。足りない部分を埋めるのは、たぶん時間のほうです。一人称で書けるのは、書いている時点がその瞬間から離れているからです。回想の距離が、自分を観察対象に変える。話し言葉で使いにくいのは、出来事が近すぎるときだけかもしれません。
位相をもう一段広げると、別の用法が見つかります。「改革を叫ぶ」「危機を叫ぶ」のように、主張を声高に述べる意味で使われる場合です。これは報道や政治評論の文体に偏っていて、日常会話ではまず出てきません。同じ動詞が、身体の限界に近い発声と、抽象的な主張の反復という、まったく違う二つの場所で使われている。共通しているのは、聞かれることを目的にした過剰さでしょう。音量が過剰なのか、頻度が過剰なのか、その違いだけです。
翻訳の現場にも、この語の偏りが表れます。英語には声を上げる動詞がいくつもあり、怒りを含むもの、驚きを含むもの、遠くへ呼びかけるものが分かれています。それらが日本語に移されるとき、会話文の後ろに付く記述はしばしば一つの動詞へ集約される。翻訳小説を読んで育った書き手は、その集約された形を標準として受け取ります。話し言葉に根を持たないこの語が地の文で強い理由の一端は、書物のなかだけで受け渡されてきた経路にあるのかもしれません。ただし、翻訳以前から書き言葉に定着していた可能性もあり、原因を一つに絞ることはできません。
似た意味の語を並べると、それぞれ別の場所に住んでいるのが見えます。わめくは話し手の評価が入り、対象を子どもじみたものとして扱う。怒鳴るは相手が特定されていて、感情の方向が決まっている。吠えるは人間に使えば侮蔑になる。このなかで、この動詞だけが評価を持たず、方向も持ちません。中立であることが、書き言葉の標準として選ばれた理由なのだと思います。日常の会話に居場所がないのは、そこでは評価抜きの報告がそもそも要らないからでしょう。
だから実務上は、中立さを使うか捨てるかの判断になります。人物の叫びに書き手の評価を混ぜたくないときは、この語が最も邪魔をしない。逆に、語り手がその人物をどう見ているかを一語で漏らしたい場面では、あえて評価つきの語に差し替える。分岐点は音量ではなく、語り手が黙っているかどうかにあります。