校庭を走る、と書いて、その「を」のところで手が止まりました。校庭は走られる対象ではありません。殴る、開ける、食べる——これらの「を」が指すものは動作を受けて変化しますが、校庭は誰が横切っても校庭のままです。ここで置かれている「を」は、目的語の印ではなく、通り抜けられる空間を差し出す印なのだと説明されます。廊下を走る、坂を走る、橋を渡る、空を飛ぶ。移動を表す動詞は自動詞でありながらこの助詞を取る。文法の説明としてはそれで済むのですが、済ませた後にもう一度読み返すと、文の見え方が変わっていました。
試しに助詞を入れ替えてみます。校庭で走る。とたんに、その人物はどこにも行かなくなる。「で」は動作の起きた場所を囲うだけなので、走者は校庭の内側で完結し、こちらは外から眺めることになります。「を」に戻すと、走者は端から端へ移り、視線は一緒に動く。同じ場所、同じ動作、違うのは一拍の助詞だけで、読者の目が固定されるか随伴するかが決まる。ただし万能ではありません。町を走る、と書いたときの「を」は経路なのか範囲なのか判然としない。地図の上を線が伸びていく感じもするし、町のあちこちを動き回る感じもする。空間が閉じているほど「を」は経路に読まれ、広がるほど曖昧になるようです。
使役形に移すと、同じ助詞がまた別の仕事をします。車を走らせる、使いを走らせる、筆を走らせる、目を走らせる。ここでの「を」は経路ではなく、動かされる側を指しています。自動詞の文では空間を差し出していた助詞が、使役の文では対象を指す。面白いのは後ろの二つで、筆と目は自分の身体か、その延長です。自分の器官を自分で走らせるという言い方が成り立つのは、その動きが意志から半分外れているからでしょう。しかも目を走らせるとき、視線のほうは文字列の上を辿っている。対象としての「を」と経路としての「を」が一つの場面に畳まれていて、読み手はその二重を意識しません。
主語の側にも同じくらい面倒なところがあります。この動詞は脚を持たない主語を平気で取る。電車が走る、亀裂が走る、痛みが走る、緊張が走る。脚がなくなった瞬間に、動詞の時間の性質まで変わってしまう。人が走っている、は進行中の動作です。壁に亀裂が走っている、は進行ではなく、すでに入ってしまった亀裂がそこにある状態を指す。日本語の「ている」が進行と結果の両方を担い、どちらに読まれるかは動詞の性質に左右される、というのはよく言われることですが、ひとつの動詞が主語を替えるだけで両側を行き来する例はそれほど多くない。
さらに端まで行くと、痛みが走る、があります。これは瞬間です。走っている状態を保てない。痛みが走っていた、と書くと落ち着かないのは、その出来事が一瞬しか存在しないからでしょう。ここまで来ると、この語は「移動」ではなく「一線を引く」ことを表している。線を引く速さだけが残って、脚も距離も消えている。走者と亀裂と痛みが同じ動詞を共有しているのは、共通するのが移動ではなく、細長い軌跡が一気に生じるという形の方だからだと考えると腑に落ちます。
複合語を見ると、その形がもっとはっきり出ます。走り書き、走り読み、口走る。前の二つは、速さと引き換えに精度を手放すことを含意していて、字が整わない、細部を拾わない、という代償が語の中に組み込まれています。三つ目はさらに先まで行っている。言うつもりのなかったことが一息に口から出てしまう事態を、この動詞が引き受けている。ここには脚も距離も移動もなく、残っているのは、始まったら途中で止められないという性質だけです。中心にあるのが速度ではなく止まらなさだと考えると、痛みも亀裂も失言も、無理なく同じ列に並びます。同じ形を他の移動動詞で作ろうとすると行き詰まります。歩き書き、登り読み、泳ぎ書き——どれも定着していません。移動を表す動詞のうち、様態を前に置いて別の行為を修飾できるものは、ほとんどこれ一つです。
そう考え直したうえで最初の一文に戻ると、書けることが増えていました。彼は走った、と書くだけでは、速さは出ても空間が生まれない。何を横切ったのかを助詞ひとつで置けば、走った長さが読者の側に立ち上がる。校庭を、坂を、人混みを。逆に、その人物を一箇所に釘付けにしたいなら「で」に落とす。走らせる場面では、動詞そのものより、その手前の一文字を選んでいるのだと思います。