歩く

【あるく】動詞

使い分けの視点

「歩く」は移動だけでなく、橋を渡る歩数や廊下を往復する回数によって、人物の迷いや時間を測れます。進路の明確さ、速度、足元の確かさを選び分け、足が何を測っている場面なのかまで示すと、単なる位置変更に終わりません。

同義語

同品詞の類義語

進む
辿る文芸的
赴く文芸的
さすらう文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

足を運ぶ
道を辿る文芸的
地を踏む文芸的

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

旅人のような文芸的
風のような
影のように文芸的

副詞的言い換え

情態副詞・形容詞の副詞的変換

ゆっくりと
とぼとぼとcolloquial
足取り重く

体言的言い換え

用言を体言に変換

足取り
道行き文芸的

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

逍遥する文芸的
彷徨う文芸的
ふらつくcolloquial

関連語を探す

語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

歩幅を数えるエッセイ関連

例文: 彼女は門までの歩幅を数えることで、帰る決心を測った。

足が定規になるとき——移動の動詞が測っているもの

不動産の広告に「駅から徒歩五分」と書いてあります。距離が、足で表記されている。この業界には八十メートルを一分と換算する取り決めがあるので、五分はおよそ四百メートルということになりますが、読む側はその換算をほとんどしません。頭に浮かぶのは長さではなく、雨の日にその道を行く面倒さ、買い物袋を提げたときの遠さ、あるいは終電を降りてからの心細さです。数字が身体の負担へ翻訳されてから受け取られている。移動を表すはずの動詞が、いつのまにか計測の単位として働いていて、しかもその単位は使う人ごとに目盛りの幅が違う。

身体が尺度になること自体は珍しくありません。フィートが足に由来することは知られていますし、日本語の「一歩」「歩幅」も同じ発想の上にあります。ただ、ここで立ち止まりたいのは、単位に転用されたあとも、この動詞が動きの実感を手放していない点です。メートルやグラムは、由来を忘れても機能する。忘れられることが単位の条件だとさえ言える。ところが「歩いて五分」と聞いた人が思い浮かべるのは四百メートルではなく、五分ぶんの退屈のほうでしょう。目盛りになってもなお身体の記憶が剥がれない——この粘りが、語の性格をよく表しています。

認知言語学では、人生や仕事といった抽象的な経過を空間の移動として捉える言い方が、多くの言語で観察されると説明されます。日本語も例に漏れず、経歴を「歩み」と呼び、停滞を「立ち止まる」と言い、譲歩を「歩み寄る」と言う。この最後のものは像がかなり具体的で、双方が物理的に動いて中間のどこかで会う絵を含んでいます。実際の交渉で椅子が動くことはないのに、条件の変更が距離の短縮として理解される。抽象へ渡された足の動きが、そこで交渉の作法まで規定している。

ただ、日本語にはひとつねじれがあって、抽象へ写された用法の多くは「歩く」ではなく「歩む」という別の語形に振り分けられています。「険しい道を歩む」は比喩として読めますが、「険しい道を歩く」と書いた途端、実際の登山道の話に聞こえてしまう。とはいえ、この分業もきれいには割り切れていません。「一人で歩いていける」と言えば自立の話になりますし、「歩き方」は所作にも生き方にも掛かる。役割が分かれているというより、抽象へ傾くときに語形が少しだけ改まる、という程度のことなのかもしれない。ついでに言えば、進行方向を時間へ写す仕組みも素直ではありません。「先週」の先は過去を指し、「先のこと」の先は未来を指す。前へ進む比喩が、時間の上では二方向に割れている。

だから登場人物を歩かせる場面では、二つのことが同時に起きていると考えたほうがよさそうです。足が地面を進んでいることと、その歩行が何かを測っていること。橋を渡りきるまでの歩数、玄関から門までの十歩、病室の廊下を往復した回数——歩行が書かれると、読者はそこへ勝手に心理の目盛りを合わせます。合わせてくれる以上、書く側はどの目盛りを差し出すかを選べる。逆に言えば、何を量るのかを決めていない歩行は、単なる位置の変更として読み飛ばされます。歩かせる前に、その足で何を測るのかを決めておく。距離なのか、時間なのか、迷いの量なのか。

文: hakadoru.ai 編集部

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